正親町天皇は室町時代末期から織豊時代、つまり織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑の時代の天皇である。
武家政権の成立からすでに400年あまり、この時期の朝廷は政治の実権など既になく、それどころかうち続く戦国乱世のせいで象徴・権威としての役目さえ覚束なくなっていた。
正親町天皇からして、践祚(皇位を継承すること)はしたが即位(践祚を公表する儀式)ができず難儀した。資金がなかったからだ。結果、践祚の三年後に中国の雄・毛利元就の援助をうけてようやく即位が実行される始末である。
このような朝廷と天皇の困窮はドラマでも描かれている通りだ。
そのため、正親町天皇は諸国の大名に天皇の領地を復興・安定させるように呼びかけなければならなかったし、多額の援助をしてくれた本願寺顕如には「門跡」の称号を与えている。そうしなければいけない状況だったのだ。
その一方で正親町天皇の時代はこのような衰亡から繁栄と安定へ切り替わる時期でもあった。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が畿内を中心に勢力を拡大し、天下が安定へ向かうと、朝廷と天皇の状況も向上していくことになったからだ。
この頃行われた御所の修理、儀式の復興、神宮の造替実施などは、そのような情勢の安定と、信長による経済支援がなければ叶わぬことであったはずだ。
やがて信長が「本能寺の変」で倒れると、豊臣秀吉が天下人の座を継承した。
秀吉は天皇と朝廷への手厚い援助姿勢も継承したので、天皇もかつてのような困窮状態に戻らずに済んだ。この関係性は正親町天皇が後陽成天皇に譲位するまで続き、その間に天皇は秀吉に関白の地位を与えて位人臣を極めさせ、また「豊臣」の姓を与えている。
さて、この正親町天皇と光秀には何か関係があったのだろうか。
本能寺の変朝廷陰謀説をとるなら、天皇と光秀に(間に誰かを挟んでかもしれないが)なにか接点があり、天皇も「本能寺の変」に深く関わったと考えるべきだろう。
しかし、これはちょっと無理がある。
すでに書いた通り、信長と天皇の関係は蜜月状態であったからだ。天皇の暮らしと朝廷のあり方に安定が取り戻せたのは多分に信長のお陰であり、感謝こそすれわざわざ彼を倒す必要はない。
これへの反論として用いられるのが「信長は天皇を蔑ろにした」という話だ。一例として、正倉院に収められた貴重な香料である蘭奢待(らんじゃたい)を強引に一部切り取らせた――などと語られる。
ただこの一件、そもそも蘭奢待の切り取りは代々の権力者によって繰り返し行われていたこと、信長は横車を押したのではなく正規の手続きを踏んでいること、切り取らせた蘭奢待を天皇に献上している(もちろん自分のもとにも残しているのだろうが)ことなどから、信長の振る舞いが強引で天皇の恨みを買うものだったとはちょっと思えないのである。
となると、やはり天皇と光秀に特別の接点はなく、「本能寺の変」にも関わっていなかったと考えるのが妥当ではないか?