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上杉謙信や武田信玄などそもそも出家後の法名(法名)で知られる戦国武将も多いですが、徳川家康が複数の宗教を信仰していたことはご存知でしょうか。江戸のまちづくりにおいても鬼門と裏鬼門の位置に寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)を建てたそうです。
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【4/15〜6/11、東京都千代田区】企画展「家康、波乱万丈!」開催
4月15日(土)から6月11日(日)までの間、国立公文書館において令和5年度第1回企画展「家康、波乱万丈!」が開催されます。
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戦国武将には鷹狩が好きな人が多いですが、家康は子どもの頃から鷹狩りが大好きで今川氏親の菩提寺でやろうとして怒られたこともあるとか。軍事訓練説よりも天皇や貴族の趣味に武士が憧れたという説のほうが説得力はありそうですね。
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いまとなっては「神君」の苗字として唯一無二の存在である「徳川」姓ですが、どうして家康が姓を変える必要があったのかをさぐっていくと、どうやら一族や家臣団を統制していくうえでの権威づけが目的だったようです。
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【3/15〜、愛知県岡崎市】岡崎城御城印の新デザイン版が販売開始
3月15日(水)より、岡崎城天守において令和5年特別限定御城印「家康公御遺訓シリーズ『桜』」が発売されます。
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源氏でなければ征夷大将軍になれない、なんてことはないのですが、徳川家康の祖父である松平清康(あるいはそれ以前)から源氏を名乗っていたようです。ただその確たる証拠は家康自身も見つけられなかったようです。
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たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました
たかまる。さんの短期集中連載「家康の合戦」の最終回を記念して、徳川家康の合戦をテーマに榎本先生を交えて3人でトーク番組を生配信しました。
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主君から一字もらったり、あるいは苗字の使用を許されたりと戦国武将はいろんな事情で名前を変えています。徳川家康も今川義元から偏諱を賜り「松平元信」と名乗るなど何度か名前を変更しました。
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元康の「元」の字は今川義元から与えられた偏諱ですが、家康の「家」の字はどこ由来なのか。じつはいろんな説があるものの、じっさいのところよくわからないそうです。
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日本でいちばん有名な合戦が「関ヶ原の戦い」でしょう。天下人・徳川家康の誕生を決定づけた合戦ではありますが、主力は豊臣恩顧の大名たちであるなど、かなり危うい勝利だったようです。三成にもう少しだけ人望というか柔軟性があれば結果はちがっていたでしょうね。
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【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?
そもそも初見ではなかなか読めない「厭離穢土欣求浄土」ですが、登誉上人が切腹を思いとどまらせたほうの説は知っていたものの、もうひとつの説は知りませんでした。意外とこちらのほうがリアリティがありますね。
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【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント
家康と秀吉の直接対決と言われることも多い小牧・長久手の戦いですが、実際は家康は織田信雄の援軍であり、その信雄が先に秀吉と和睦したため、はしごを外された家康は危機を迎えます。天災によって救われたのは家康の人生最大の幸運だったかもしれません。
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【サイン本プレゼントあり】「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のご紹介
マコト出版から出版されるガイドブック「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のサイン本を5名の方にプレゼントします!
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「高天神を制するものは遠州を制する」といわれたほどの要衝をめぐって徳川・武田が争奪した高天神城ですが、最終的に城将・岡部元信からの救援要請に応じることができなかった武田勝頼の威信を致命的に失墜させ、武田家滅亡のきっかけになった戦いとも言われます。
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【1/10〜3/23、京都府京田辺市】「京田辺伊賀越えスタンプラリー」開催
現在、京都府京田辺市において「京田辺伊賀越えスタンプラリー」が開催中です。
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ドラマでも大変さが伝わりましたが、兵糧や小荷駄隊を守りながら敵中突破するというのはかなり難易度の高いミッションでした。ちなみに援軍が迫るなか前日に兵糧を入れる意味は薄いので前年ではないかという説があったり、これは米ではなく弾薬だったのではという説もあるようです。
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【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦
長篠の戦いというと鉄砲の三段撃ちなど信長が主役のように思われがちですが、本来はあくまでも徳川対武田の領土争いから起きた合戦です。 また武田氏が奥三河に侵攻した理由として、鉛鉱山の争奪戦だったかもしれないという新説が近年唱えられているというのは興味深いですね。
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家康(当時は竹千代)が駿府に連れて行かれた時点で、すでに父親の広忠は亡くなっていたので、当主自ら人質というのもおかしな話だと思います。義元は三河統治のために幼年の当主を庇護・後見し、今川一門に迎えて英才教育を施そうとしたと考えたほうが自然かと。
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【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い
過去の戦いは今川義元の家臣としてや織田信長の援軍としての参加でしたが、今回の「三方ヶ原の戦い」ははじめて家康が対峙した本格的な戦国大名同士の合戦です。 通常ならこの敗戦を機に徳川家は滅亡へ向かってもおかしくないのですが、信玄の死など幸運が重なり生き延びることになります。