西馬音内城は稲庭城の支城として、小野寺経道の二男である小野寺道直によって築かれた城です。8代・小野寺肥前守茂道が城主のとき、娘婿である矢島五郎満安をかくまったことから宗家である横手城主・小野寺義道との関係が悪化し、その内紛に乗じた最上義光が1595年(文禄4年)に侵攻すると、茂道は義道の出兵に従わず降伏しています。しかし小野寺氏が最上氏に奪われた湯沢城を攻撃した際には復帰しています。小野寺氏は「関ケ原の戦い」で西軍の上杉景勝に味方しましたが、上杉氏が撤退すると孤立することになり、最上氏の攻撃を受けて小野寺氏は滅亡しました。現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができ、近隣の西蔵時には焼け残った城門が移築されています。また土着した遺臣が主君を偲んで舞ったことが起源とされる亡者踊りは、徳島の阿波踊り、岐阜の郡上踊りとともに「日本三大盆踊り」と呼ばれています。
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