野見神社は高槻城の三の丸にある神社で、創建の年代は不詳ですが、社伝によれば宇多天皇の時代に牛頭天王社として造営されたと伝わっています。
その後も領主によって保護されてきましたが、キリシタン大名として知られる高山右近が城主となったときに社殿が破壊され、社領も没収されました。
江戸時代に入って、1619年(元和5年)、松平紀伊守が城主となったときに社殿が再建され、現在に至ります。
境内にある永井神社は高槻藩主・永井直清を祀った神社で、ここにある唐門は高槻城の城門が移築されたと伝わっていますが、神主さんに話を伺うと移築されたものではなく当時からこの場所にあったそうです。
この唐門は江戸時代の貴重な建築物として、高槻市指定有形文化財に指定されています(平成17年6月14日指定)。
入口にある永井神社の案内板です。
永井神社(野見町)
永井神社は、高槻城三の丸の一角に所在する野見神社の摂社で、江戸時代中期の寛政5年8月(1793)、9代藩主永井直進が、初代藩主の直清を祭神として勧請し創建した。その後、嘉永元年(1848)に、11代永井直輝が直清の高槻城入城200年を記念して社殿を修復、新たに唐門と拝所を造立した。
藩祖直清は、番田井路開削による新田開発のほか、伊勢姫・能因法師らの顕彰にみられる文化政策の強化などに努めた。以来、譜代大名としての永井家に対する幕府の信頼は揺らぐこと無く、明治時代に至るまでの13代220年間にわたって藩制を担った。
永井神社は、高槻の江戸時代の藩政期における歴史遺産として極めて貴重であり、権現様式の社殿と唐門をあわせて平成17年6月に市の有形文化財に指定されている。
平成18年4月 高槻市教育委員会
野見神社の説明です。
野見神社
御由緒
- 御祭神
- 須佐之男命
野見宿祢命- 御例祭
- 十月十日
社伝によれば、宇多天皇(八八七〜八九七年)の時、当国に悪病が流行し、多数の死者を出しました。この時「社殿を造り、牛頭(ごず)天王をお祭りすれば悪病が治まる」というお告げがあり、社殿を造ってお祭りしたところ、たちまち悪病は治まりました。村人たちは喜び、これを牛頭天王社として祭ったとあります。
その後、享禄、天文(一五二八〜一五五四)の頃、高槻城主入江駿河守は神威を感じ深く崇敬し、天下泰平、五穀豊穣を祈り、良田一町二反を社領として寄進し、祭礼の儀も盛大に執り行なわれました。次いで、城主和田伊賀守惟政(これまさ)も、篤く尊敬し保護しましたが、その後、城主となった高山右近は、キリスト教を信じ、社殿を破壊したので、一時難を山城国男山に避けました。しかし元和五年(一六一九年)に至って、高槻城主が松平紀伊守になると社殿が復興され、神領の寄進も受けて中断されていた祭礼も復活されました。
慶安二年(一六四九年)、永井日向守直清が高槻城主になり、以後二二〇年間十三代続いた永井氏によって例祭には臣下の警護を受けるなど盛大な祭礼が行われました。
明治の始め頃、野見宿禰命を合祀してから社名を野見神社と改め、又明治四年の社格の制定により郷社に列せられました。江戸時代、三層の天主閣がそびえていた高槻城址に鎮座する野見神社は現在広く高槻市民により崇敬され十月十日の秋祭には盛大な神輿(みこし)の渡御が行なわれています。
主祭日
- 一月一日
- 歳旦祭
- 一月十日
- 高槻戎神社十日戎
- 一月十五日
- とんど神事
- 二月節分の日
- 節分祭
- 四月二十四日
- 永井神社例祭
- 五月第三日曜日
- 護国神社例祭
- 十月九日
- 小島弁天宮例祭
- 十月十日
- 例祭(秋祭)
- 十月一五日
- 七五三詣
- 毎月一日、十五日
- 月次祭
野見神社の観光情報
住所 | 高槻市野見町6-6 |
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URL | http://www.nomijinja.jp/ |