高槻城跡公園は高槻城の本丸跡を中心とする一帯に1956年(昭和31年)に開設された公園です。
公園に入ってすぐのところに変わった形の石碑があります。
高槻城址
高槻城は南北朝期に姿を見せ江戸期には八丁松原の景観と調和して名城と称えられました。城主のなかで高山右近はキリシタン大名で有名です。大坂、京に近い城下町は漢詩人藤井竹外ら多くの文人、学者を育てました。城の石は明治初期、今の高槻の町に発展する契機となった鉄道(JR)敷設に役立つなど高槻城跡には数々のドラマが秘められています。
また正面には模擬石垣と高山右近の銅像があります。
この銅像は美術彫刻家・西森方昭氏の作だそうです。
高山右近(一五五二〜一六一五)
郷土が生んだ戦国武将ユスト右近長房、、若冠二十一にして高槻城主となり、文武両道にすぐれ、信長、秀吉旗下の逸材であった。築城技術にたけ、領民をいつくしみ、茶ノ湯を愛した。家康の折、十字架の信仰を貫いてマニラに追放され、七曜星の下、異国の土にねむる。香り高きキリシタン大名、君の右手は十字剣をおさえて平和を語り、君のいのちは、地位とほまれと世をすてて、永遠の愛に献げられた。一九七二年三月
浜崎伝謹書
銅像の下に高山右近を紹介する案内板があります。
高山右近(たかやまうこん)
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文21年(1552)頃、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。
右近と父・高山飛騨守(ひだのかみ)は、主君和田惟政(わだこれまさ)の敵荒木村重(あらきむらしげ)とむすび、惟政の遺子惟長(これなが)を追放し、元亀4年(1573)右近は高槻城主となりました。摂津国主である荒木村重が織田信長に叛旗をひるがえした天正6年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。その後右近は、山崎合戦(やまざきのかっせん)には、秀吉に仕え功績を挙げました。
右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封(いほう)されるまでの12年間でした。
右近は、千利休(せんのりきゅう)の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。天正14年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊(みなみのぼう)と号していました。
キリシタン大名としての右近は、天正2年(1574)城の側(そば)に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時2万5千人の領民(りょうみん)の内1万8千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。
秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川幕府により、慶長19年(1614)10月、国外追放処分を受けました。マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、慶長20年2月に亡くなっています。
平成8年3月高槻市教育委員会