高槻城址公園の入口手前に高槻城の石垣石が置いてあります。
この石は高槻城の天守台や本丸御門の基礎石(根石)と考えられています。
高槻城の石垣石
高槻城は明治維新により廃城となりましたが、石垣石の大半は明治7年(1874)、現在のJR京都線建設のため、橋梁(きょうりょう)の橋台やアーチに転用されました。
昭和50年(1975)、府立島上高校(現槻の木高校)での発掘調査で、本丸南西隅の石垣基礎が発見され、軟弱地盤での石垣築造を可能にするため、地下約5mの深さに梯子胴木(はしごどうぎ)などで強固な基礎を築いたことがわかりました。また、その技術から江戸初期に築造されたことも明らかになりました。ここに展示した石垣石には、石切り場で切り出した際の「矢穴(やあな)」痕(あと)や刻印を見ることができます。平成25年1月 高槻市教育委員会
高槻城は周辺の地盤が緩いこともあって、石垣はほとんど築かれず、土塁で囲われていたそうです。
その軟弱な地盤の上に石垣を築くために、丸太などの木材を使って人工的な地盤をつくったそうです。
またその数少ない石垣の石も案内にあるように国鉄(現在のJR)を建設する際に転用されたため、城址で確認できるものはほとんどありません。
(ちなみに天守が築かれたのも江戸期で、高山右近の時代には天守はなかったと思われます)
石垣石のすぐそばに高槻城址の石碑と案内板があります。
高槻城跡(たかつきじょうあと)
高槻城が記録に登場するのは、14世紀前半、入江左近将監春則(いりえさこんのしょうげんはるのり)が居城としてからである。
永禄12年(1569)には和田惟政(わだこれまさ)が城主となったが、元亀4年(1573)、その子惟長(これなが)と対立した高山飛騨守(たかやまひだのかみ)・右近(うこん)父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、城内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、天正9年(1581)には、イタリアの巡察師(じゅんさつし)ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催している。
その後は、豊臣氏、徳川氏の直轄(ちょっかつ)となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤・土岐・岡部など譜代大名が城主となった。そして慶安2年(1649)、永井直清(ながいなおきよ)が3万6千石をもって入城、明治時代までの13代約230年にわたり、永井氏の藩政が続いた。
明治7年(1874)の鉄道敷設(ふせつ)に伴って高槻城は破却(はきゃく)され、今では城跡公園(しろあとこうえん)となり、市民の憩いの場となっている。昭和50年の調査では、本丸石垣の基礎部分を発掘、今も地中に遺構が眠っていることが明らかになった。本敷地内の石組みは、天守台や本丸御門の基礎石(根石)である。
高槻城跡は、昭和25年5月に府の史跡に指定されている。
昭和63年6月大阪府教育委員会
高槻市教育委員会
木の影になっていて少しわかりにくいので、見逃さないように注意してください。
公園入口の右手にあります。