中津城模擬天守の北側の堀のところの石垣は黒田時代と細川時代の両方の石垣が見られます。
ここがちょうど境界線の部分で、黒田時代の石垣が右側、そこから左側に延長するカタチで細川時代の石垣が積まれています。
なぜ内側に拡張しているのかというと、黒田時代には川側が本丸だったからです。現在の模擬天守がそもそも天守があった位置ではないので、ちょっと違和感がありますよね。
(黒田時代の中津城に天守があったかどうかも不明ですが、あったとすれば鉄門のところだそうです)
このy字になっている部分が境界なんだそうです。
案内板があるのですぐに見つけられると思います。
黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
中津城が歴史に登場するのは、天正十五年(一五八七)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、機内への重要な港でもあった。
孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見・大塚一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いなどの功によって筑前五十二万石への加増転封し中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が筑前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長七年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。元和元年(一六一五)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌二年中津城の残置が決まった。
元和六年(一六二〇)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌七年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。中津市教育委員会中津の郷土史を語る会
黒田が持ち込んだ古代山城の石
正面の石垣にはy字型の目地が通ります。右側(川側)が黒田時代の石垣でその上に積まれた左側の石垣が細川時代です。黒田時代の石垣は四角に加工された石が使用されています。黒田氏が中津城築城をはじめた天正16年(1588)当時は石垣には未加工の自然石を用います。しかし、ここではほとんどが四角に加工した石で造られています。これは川上の福岡県上毛町にある古代(7世紀)の遺跡「唐原山城(とうばるやまじろ)」(国指定史跡、旧:唐原神籠石)から持ちだされた石で、直方体の一辺が断面L字型に削られているのが特徴です。川沿いの石垣に多く用いられています。
黒田時代、お城の横の川が山国川(当時:高瀬川)本流で、現在三角形の小祝は福岡県側と地続きでした。しかし、大洪水がおき、小犬丸と小祝の間が切れ小祝が三角州となると、その後度重なる洪水で中津城横の川は土砂で浅くなり、山国川(中津川)の支流となりました。
まだ川底が深かった時代、黒田は川上の遺跡から古代に加工された石を持ちだし、川を下らせ石垣に使用したのでしょう。2011年10月 中津市教育委員会
現在は土手に埋められていますが、これが黒田時代の石垣で直方体の一辺が削られた加工跡があります。