中津城の1Fには奥平忠昌が徳川家康から拝領したといわれる「白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)」が展示されています。
徳川家康公より拝領した奥平家重代の家宝白鳥鞘の鑓(やり)(鎭西八郎爲朝用ゆる鏃(やじり))
(平安時代末期)
□刃 長さ:三寸 量目:三十九匁 □三条小鍛冶宗近 作
穂先は源氏の弓の名手、源為朝公が使用した鏃(やじり)と伝えられている。徳川家康公が織田信長公より拝領し、徳川家の家宝とされていた。その後、家康公の曾孫にあたる奥平忠昌公が、元和二年(1616年)家老桑名主米と共に駿府で家康公の病状を見舞うため、初めての拝謁を賜った際、当時六歳の忠昌公がこの槍を所望して拝領。奥平家の行列は、この槍の威光で諸大名より特に重視され、また江戸城登城の際玄関先追持入ご免であった。以来奥平家の重宝とされている。三条小鍛冶宗近の作と云う。
穂先は源氏の弓の名手、源為朝が使用した鏃(やじり)と伝えられており、もともとは家康が織田信長から拝領し、徳川家の家宝とされていたものだそうです。
その後、1616年(元和2年)に家老である桑名勝成(主米)とともに駿府まで家康の見舞いに訪問した当時6歳の忠昌がこの槍を所望して拝領したといわれています。それ以来、この槍は奥平家の重宝とされています。
なお、この桑名勝成は「奥平に過ぎたるは、桑名主米に白鳥の鑓」と詠われたほどの人物で、奥平姓を許されました。
忠昌の祖父である信昌(貞昌)は家康の長女・亀姫を正妻として娶っているので、忠昌にとって家康はひいおじいさんにあたります。
かわいいひ孫の頼みですから、家康も気前よくあげちゃったんでしょうかね。
ちなみに鑓と槍は基本的に同じと考えていいようです。
厳密には「鑓」のほうは国字(日本で出来た漢字)で、武器としての「ヤリ」という意味しかないのに対して、「槍」のほうは元々中国からある漢字で、草を刈る道具や、鉄砲といった意味も含んでいるそうです。