柴田勝家の居城で、安土城に匹敵する巨城だったと伝わる北ノ庄城の歴史を時系列でまとめています。
北ノ庄城とは
北ノ庄城は現在の福井県福井市大手のあたりに所在した城で、かつては越前国足羽郡北ノ庄という地名だったことにちなむ城名です。
平地に築かれた純粋な平城ですが高石垣を備え、北方には九頭竜川、南方には足羽川と吉野川があり、天然の河川を城堀として利用していました。
のちに触れますが、北ノ庄城の本丸は現在の福井城と比較するとやや南側にあり、柴田神社のあたりがその位置として比定されています。
北ノ庄城の前身は1338年(建武5年/延元元年)に斯波高経が築いた北庄城であると推定され、1575年(天正3年)に織田家中の柴田勝家がここに北ノ庄城を築城しました。
1581年(天正9年)に宣教師のルイス・フロイスが来訪した時は拡充工事中でしたが、その規模の大きさを本国への手紙で報告し、城や家の屋根が石製の瓦でふかれていたことを伝えています。
羽柴秀吉が小早川隆景に宛てた書状では北ノ庄城の天守を九重と表現していますが、9階建てという意味に限らず高層の建造物があったことを示すとも考えられています。
一説では安土城に倍する規模をもつ要害だったとされる北ノ庄城ですが、1583年(天正11年)の北ノ庄城の戦いで勝家は秀吉に敗北。
妻・お市の方とともに自刃し、建造物はそのほとんどが焼失しました。
戦後、1583年(天正11年)にはその旧領に丹羽長秀や堀秀政らが一時入城。1599年(慶長4年)には青木一矩が北ノ庄城城主となっています。
ここまでが、柴田勝家が造営した北ノ庄城の豊臣による統治の系譜です。
そして松平氏の福井城へ
正確には北ノ庄城と現在の福井城とは異なる城ですが、その沿革では不可分のものであるため後の福井城についても概観しておきます。
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いの後、当地を拝領したのが徳川家康次男・結城秀康でした。
その翌年から城の再建工事に着手し、およそ6年をかけて完成したとされています。
秀康はやがて松平姓を許されたため、徳川一門に相応しい城づくりが目指されました。
本丸は北ノ庄城時代よりも北方に移され、1611年(慶長16年)には町割りそのものも北側へ向けて拡充されています。
一説には本丸と二の丸は徳川家康自身が縄張りを行ったともされ、改築にあたっては吉野川の東に新たに河川を掘削。旧吉野川の流路は百間堀として利用するという、大規模な河川工事も行われました。
以降、越前松平氏の本城として機能しましたが明治維新後の1871年(明治4年)、当時の福井藩が城の解体願いを提出。1873年(明治6年)には兵部省・陸軍省へと管轄が委譲されます。
農地などを経て1890年(明治23年)、松平家に所有権が戻され、農業試験場などとして利用されました。そして1919年(大正8年)には福井県に無償譲渡が決定。1923年(大正12年)には福井県庁が本丸跡に移転新築されています。
1993年(平成5年)より福井城跡地の発掘調査を実施、2007年(平成19年)には旧北ノ庄城の本丸があったとされる北の城址・柴田公園が、日本の歴史公園100選に選定されました。
2017年(平成29年)には続日本100名城に選ばれ、その間にも城の各設備の復元が行われ、2019年(平成31年)の発掘調査では百間堀の石垣遺構が発見されています。
北ノ庄城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
1338年(建武5年/延元元年) | 北ノ庄城の前身とされる北庄城を斯波高経が築城(推定) |
1575年(天正3年) | 柴田勝家が北ノ庄城を築城 |
1581年(天正9年) | 宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄城に来訪 |
1583年(天正11年) | 北ノ庄城の戦いで柴田勝家が敗北、当城は焼失。以降、丹羽長秀・堀秀政が一時城主に |
1599年(慶長4年) | 青木一矩が21万石で北ノ庄城城主に |
1600年(慶長5年) | 結城秀康が68万石で北ノ庄城城主に |
1601年(慶長6年) | 秀康が北ノ庄城の再建に着手(=福井城) |
2007年(平成19年) | 北の城址・柴田公園が日本の歴史公園100選に選定 |