北の庄城址・柴田公園の入口には北ノ庄城の想像図と歴史についての案内板があります。
柴田勝家が築いた北ノ庄城
織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川の合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。
天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に、「此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、余が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである......」と報告している。
また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について「城中に石蔵を高く築き、天守を九重にあげ候......」と記しており、九層の壮大な天主閣であったことが知られる。
勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架設したと言われる。
柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。
北ノ庄城の天守は9重とも7重とも伝えられていますが、その詳細はいまだに不明です(イラストは5重ですね)。
ただ安土城に匹敵する巨城であったことはまちがいなさそうです。