来週から毎日、榎本先生の連載「譜代大名126家」をブログで公開していきます。
この連載も前作「外様大名40家」と同様、過去に出版された『譜代大名126家〜「勝ち組」の出世競争〜』をもとに再編集したものです。
外様大名に対して、譜代大名は徳川家康に「関ヶ原の戦い」以前から仕えていた家臣たちのことを指します。
もともと本多忠勝や井伊直政たちは家康のいち家臣でしたが、「関ヶ原の戦い」後に大名として取り立てられ、全国の要地に城主(藩主)として赴任します。また幕政においても老中などの要職をつとめたのは譜代大名たちです。
江戸時代が265年もの長期間にわたって継続できたのは、この外様大名と譜代大名の絶妙なバランスにあったと思います。
外様大名は高い石高を与える代わりに遠国に配しつつ幕政には参加させない一方で、譜代大名には10万石前後の領地しか与えない代わりにポスト(地位)を用意して名誉を与えるという、パワーバランスの設定が見事です。
(さらには徳川一族である親藩大名を幕政から遠ざけ、全大名に対して参勤交代などで財政的に圧迫したのも反乱が起こりにくい状況をつくることに寄与しました)
こうした背景において、譜代大名には外様大名と異なり、幕府内での出世競争という側面が生まれます。
ドラマなどでよく出てくる大老や老中以外にどんな役職があったのか、将軍が代わるたびに出世にどんな影響があったのかなど、わかりやすい読み物になっていますので楽しみにしていてくださいね。
最後に榎本先生からコメントをいただけたのでご紹介します!
また原著である『譜代大名126家〜「勝ち組」の出世競争〜』の第二部はいわゆる大名家列伝となっているので、こちらについては前回同様、大名家データベースとして使わせていただくことにしました。
随時追加していきますので、あわせてご覧ください。
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江戸幕府はしばしば巨大な官僚組織と紹介されます。無数の旗本・御家人たちがその組織を動かしていたからです。
しかし、彼ら現場の役人たちが幕府組織の上にまで上り詰めるようなことは基本的にありませんでした。現代日本の官僚組織にキャリアとノンキャリアがいるように、幕府においても幕府を主体的に動かしていくような最上位役職を占めるのは、あらかじめそのように定められた立場の人々だけだからです。
それこそが本連載で紹介する譜代大名――徳川将軍家が天下を握る前にその家臣となった大名たち、というわけです。先祖代々の繋がりによって将軍と結ばれた彼らが老中・若年寄や京都所司代・大坂城代といった要職を占めることで、江戸幕府という巨大なピラミッドは統制されていました。
徳川家が天下を握ってから従った外様大名たちが幕末まで中央政治にかかわることを許されなかったのに対し、譜代大名たちはこのように幕政を動かすことができました。そのことは彼らのプライドの根幹になっていたことでしょう。
だからといって、彼らが必ずしも外様大名より恵まれていた、とは言いがたいところがあります。「徳川家臣」という性質を強く持つ彼らは一般に所領が小さく、余程の名門であっても一部外様大名のような20万石を超える大大名はほとんどいなかったのです。転封が多くて地元に根付きにくいという事情もあったようですね。
また、老中のような幕政の実質的トップに上り詰めようと思ったら、そのためにかかる各所に付け届けをし、根回しをし......とコストは莫大なものになってしまいます。それでもなお彼らが老中の座を目指したのは、譜代大名としての誇りのためか、自己満足か、それとも幕政改革の理想に燃えていたためでしょうか? 数百年が経過した今となっては、わかりようもない部分ではありますが、興味も出ますよね。
彼ら譜代大名の歴史、あり方、そして出世の道を紹介します。