新バッジ「日本三大陣屋」を公開しました!
Wikipediaなどにも記載があるこの「日本三大陣屋」ですが、じつはこれも出典は不明です。
飯野陣屋(千葉県富津市)、徳山陣屋(山口県周南市)、敦賀陣屋(福井県敦賀市)とそれぞれの地元の教育委員会や観光協会にも問い合わせたところ、唯一、富津市教育委員会からそれらしい回答をいただけました。
どうやら、江見水蔭(えみ・すいいん)という明治時代の小説家が『水蔭行脚全集』第六巻にて、「長州徳山・越前敦賀・上総飯野これを日本三陣屋という。」と記していることが、『富津市史 通史』にて紹介されているそうです。
また、飯野藩を治めた保科家の文書にも「世ニ三陣屋ノ一タリ」と記されていることが『富津市史 史料集二』に記載されているとも伺いました。こちらを信じれば「江戸時代に」呼ばれたといえますね。
つまり「日本三大陣屋」ではなく「日本三陣屋」の出典しかわからなかったのですが、バッジの名称は一般的にとおりのよい「日本三大陣屋」としました。
富津市教育委員会からは資料のコピーも送っていただき、ほんとうに助かりました。この場を借りてあらためてお礼を申し上げます。
いずれも建物こそ残っていませんが、「日本三大陣屋」に数えられるだけあって歴史的なエピソードには事欠きません。
たとえば飯野陣屋は保科弾正忠正貞が藩祖ですが、彼は保科正直の三男です。母親は徳川家康の異父同母妹・多劫姫であり、兄の正光に実子がいなかったこともあり、保科氏の後継者と目されていました。
ところが1617年(元和3年)、徳川秀忠の実子(落胤)が正光の養子となり保科氏を継いだため、廃嫡されています。この養子こそが会津藩祖・保科正之です。
ゆえに正貞は保科氏としてはむしろ本家筋にあたるような家系なのです。
会津藩があまりにも有名なので飯野藩や正貞の存在を知る人は少ないと思いますが、飯野藩は石高2万石の小藩でありながら「総南の名門」といわれたそうです。
また正之と正貞は上記のような経緯があるので仲が悪かったのかと思いきや、正之は自身が所有していた保科家代々の家宝を、本来跡を継ぐはずであった正貞に譲渡しており、ここでも江戸時代屈指の名君らしい逸話が残っています。
こんなふうにバッジを獲得するためにただ訪問するだけじゃなく、その土地の歴史を学ぶひとつのきっかけにしてもらえるとうれしいです。どんなところにも歴史はちゃんとあるので。
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