石田堤(いしだづつみ)とは、石田三成が忍城を水攻めするために築いた堤(堤防)のことです。
三成は近辺の農民などに米や金銭を与えて突貫工事をおこない、わずか5日で全長28kmにもおよぶ石田堤を築きました。
(じっさいにはすべてをあらたに築いたわけではなく、自然の地形を利用して微高地を巧みにつなぎあわせたものと考えられています)
現在は宅地化などで堤はほとんど残っていませんが、丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残です。
道の脇に案内板があります。
石田堤(いしだづつみ)
この一段高い桜並木は、天正(てんしょう)18年(1590)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命(めい)を受けた石田三成(いしだみつなり)が、忍城(おしじょう)を水攻めした際の堤(つつみ)の一部です。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川(とねがわ)と荒川(あらかわ)の水を流入(りゅうにゅう)させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳(まるはかやまこふん)の頂上に張られました。
またもう一か所、行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて、堤が約250mほど残存しています。
見学者用の駐車場もあります。
ここにも案内板が設置されています。
県指定史跡石田堤
昭和三十四年三月二十日指定
この堤は、天正十八年(一五九十年)六月、石田三成によって、忍(おし)城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴ない、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に一~二メートル程盛土をしたものです。
こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下町より、下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。
今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿いに樹えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。 石田堤を守る会
埼玉県教育委員会
行田市教育委員会
ここから少し歩いた上越新幹線の高架下付近に「石田堤史跡公園」があります。
ここに高低差がはっきりとわかる堤が残っています。
堤の上を歩くこともできます。
公園の駐車場です。
忍城址や丸墓山古墳から歩くとかなり大変なのでレンタサイクルなどを利用したほうがいいと思います。