勝瑞城館跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
国史跡(くにしせき)勝瑞城館跡(しょうずいじょうかんあと)
勝瑞は、室町時代に阿波守護細川氏によって守護所が置かれた地です。室町時代に阿波守護となった細川氏は当初「秋月」(阿波市)に守護所を置きましたが、後に「勝瑞」に守護所を移転させます。守護所移転の時期は諸説あり明らかではありませんが、遅くとも15世紀後半には「勝瑞」に守護所が置かれました。その後に阿波の実権を握った三好氏もまた当地を本拠としました。中央の政権で活躍した細川氏や三好氏の本拠地であった勝瑞は、当時、阿波の政治・経済・文化の中心地として大いに繁栄したことでしょう。
勝瑞城館跡は、三好氏の居館跡と推定されており、発掘調査では16世紀中葉頃から徐々に拡張し、最終的には幅10mを超す大規模な濠で区画された複数の曲輪からなる城館の姿が想定されています。また、土塁を持たない勝瑞館跡では、池泉庭園と枯山水庭園の二つの庭園が確認されたり、茶道具や香道具の出土が見られるなど、三好氏の優雅な生活が垣間見られます。
基本的には平和の日々が続いた中世の勝瑞でしたが、天正期に入ると一気に激動の時代となり、この頃に勝瑞の防御のために土塁を持つ曲輪、勝瑞城跡が築かれます。天正10年(1582)8月、勝瑞へ攻め込んできた土佐の長宗我部氏との決戦である中富川の合戦で大敗を喫した三好勢は一か月ほど勝瑞城館に籠城しましたが、城主の三好(十河)存保は持ちこたえることができず、開城して讃岐へ退きました。
平成6年度から始まった発掘調査では、濠や庭園、礎石建物跡など良好な保存状態の遺構が検出され、希少な貿易陶磁器を含む大量の遺物が出土しました。これらは、全国的に見ても一級品で、私たちにとって貴重な歴史文化遺産であるため、平成13年1月29日に国史跡に指定されました。その後も発掘調査では様々な発見が相次ぎ、平成19年2月6日と平成26年10月6日にも追加指定を受けました。
指定地は、県道松茂吉野線の北側にある勝瑞城跡の8,509.88m2と、その南側の勝瑞館跡42,150.67m2、さらに勝瑞駅の西側に位置する三好氏の祈願寺である正貴寺跡と考えられている一角7,557.13m2の合計58,217.68m2です。指定地の大部分は公有化し、発掘調査成果をもとに整備を進めています。藍住町教育委員会