園部城は日本の城郭史の中で最後の城と呼ばれています。
もともと園部陣屋と呼ばれていた築城当時から、惣構えで、二重の堀や狭間を設けた塀もあり、城域も南北約650m、東西約450mと、じゅうぶん城と呼べる規模でした。
幕末の動乱期に京都見廻役として京都の警固にあたっていた最後の藩主となる小出英尚は、「池田屋事件」や「禁門の変」など相次ぐ京での武力衝突に備えて、京から近く、万が一の際には天皇を守る砦とすべく園部に城を築くことを徳川幕府へ京都所司代・松平定敬を介して老中へ上申しましたが、改修は認められませんでした。
その後も英尚は引き続き交渉を行い、ついに1867年(慶応3年)10月に内諾を得ることに成功しますが、直後に「大政奉還」が行われたために正式な許可が降りませんでした。
明けて1868年(慶応4年)1月に明治政府に願い出たところ、「帝都御守衛」のためとして城の改修が認められ、1月28日頃から普請がはじまり、1869年(明治2年)8月28日に上棟式が挙行されました。
この改修では櫓門が3カ所、巽櫓(2重櫓)や小麦山櫓(3重櫓)などの櫓が5カ所建造され、堀も造成されました。
このように、大政奉還後の1868年(慶応4年)に着工し、明治時代に入ってから完成したことから、長崎県の石田城と並んで「最後の城」と呼ばれています。
園部城の誕生
元治元年(一八六四)一二月、園部藩は幕府へ対し、園部陣屋に櫓門三ヶ所、櫓九ヶ所、本丸以外の塀にも狭間を新規築造したいと絵図を添えて願い出ます。幕府へ提出した書状によれば、初代吉親の園部陣屋築造時には、塀に狭間を配置し、二重堀や櫓台まで完成していたが、その後に延期となったままであること、池田屋事件や禁門の変などの武力衝突が相次いで起こり、警備を厳重にすることを仰せ出されている情勢であること、園部は京都から近くそういった際には要衝地ともなることなどが理由として述べられています。幕府へは、京都所司代の松平定敬から老中へと進達されましたが、築城は認められませんでした。
この後も、園部藩では幕府に対して引き続いて交渉を行い、慶応三年(一八六七)一〇月、ついに内諾を得ることができました。しかし、大政奉還が直後に行われたため正式な許可が出ず、翌年の一月に新政府へ願い出ることになります。新政府へ願い出た理由も幕府へ提出したものと同内容でしたが、この時は「帝都御守衛」のためとして、すぐに認められました。
この後、櫓門三ヶ所、櫓五ヶ所の普請が行われ、また堀も造成して園部陣屋は園部城へと生まれ変わりましたが、四年後には多くの建物が取り壊されてしまいます。しかし、現在でも京都府立園部高等学校には櫓門・番所・巽櫓が、安楽寺(八木町北屋賀)は太鼓櫓が残り、その往時を伝えています。『園部藩のあゆみ』P.47