瀬田の唐橋(瀬田橋、勢多の唐橋)は「急がば回れ」の語源ともなった橋として知られています。
日本列島のほぼ真ん中にある琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川だけで、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく、その瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地でした。
このことから、古来より「唐橋を制する者は、天下を制す」といわれ、じっさいに壬申の乱や治承・寿永の乱(源平合戦)など数多くの合戦の舞台となりました。そしてそのたびに橋は焼き落とされたそうです。
唐橋を現在の位置に移してかけなおしたのは織田信長で、架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆が務めました。
橋は90日で完成し、このときに大橋と小橋の形になったとされます。
この橋が焼け落とされたのは「本能寺の変」のときです。織田信長を討った明智光秀が安土城を攻めようとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止しましたが、橋は光秀によってただちに修復されてしまったそうです。
江戸時代には膳所藩(本多家)が管理し、東海道を行き交う旅人で橋はにぎわいました。
当時の様子は歌川広重によって描かれた「瀬多の夕照(せきしょう)」で広く知られています。
1979年(昭和54年)には木造の橋が現在のコンクリート製に造り直されましたが、橋の特徴である擬宝珠(ぎぼし)は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存しています。
また、瀬田の唐橋は京都府宇治市の宇治川に架かる宇治橋、京都府大山崎町の淀川にかつて架かっていた山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋のひとつとされ、日本の道100選にも選ばれています。
「急がば回れ」の語源
江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介しています。その歌は以下のものです。
武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
東から京都へ向かうには矢橋(やばせ)の港から大津への航路がもっとも早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくありませんでした。
瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだそうです。
古田織部と瀬田の唐橋
瀬田の唐橋は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で、茶人としても知られる古田重然(古田織部)のエピソードにも登場します。
千利休が弟子たちが集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものがふたつあるが、見わけられる人はいないものか」と訊ねたところ、一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が織部に何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見わけてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、ふたつの擬宝珠は東と西のこれではありませんか」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した。 久須見疎安『茶話指月集』
古田織部を主人公にしたマンガ『へうげもの』にもそのシーンが出てきます。