瀬田の唐橋の中ノ島の南側(東海道新幹線側)にある小高い丘の上に俵藤太秀郷(藤原秀郷)の像が建てられています。
この陶製(信楽焼)の像は1979年(昭和54年)の橋の架け替え完成を記念して建立されたものです。
高台になっているので、ここからは唐橋もよく見えます。
ちなみに俵藤太秀郷は瀬田の唐橋で百足退治をした伝説の武将です。
像は百足退治をした三上山の方角をじっと見据えていますが、脇にある案内板は読めませんでした。
道路をはさんだ反対側に百足退治伝説について書かれた案内板があります。
瀬田の唐橋 俵藤太秀郷むかで退治
豪傑の誉れ高き秀郷は、誰もが恐れていて近寄りもできなかった瀬田橋に横たわる六十六メートルもの大蛇の背をやすやすと踏み越えた。すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れた。何事かと話を聞けば、三上山に7回り半も巻き付いた大ムカデが夜な夜な琵琶湖の魚を食いつくしてしまい、人々が大変困っているという話。しかしあまりにも凶暴な大ムカデを恐れて誰も退治できずにいる。そこで爺さんは大蛇に姿を変えて勇気のある豪傑を待っていたと言う。秀郷は、こころよく大ムカデ退治を引き受けた。秀郷の射た矢が見事に大ムカデの眉間を射貫き、大ムカデは消え失せた。この秀郷の武勇をたたえて爺さんが招待したところが瀬田橋の下、竜宮であった。琵琶湖に暮らす人々を守るべく一千年余昔から瀬田橋に住むという。漁民の暮らしや、豊かな実りある近江国をこの竜宮から見守ってきたという。秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産に竜宮を後にした。そこから「俵藤太」の名が付けられたとされている。 大津市 古都指定都市制定記念 大津東ロータリークラブ
この百足退治伝説には別パターンもあるようで、たとえばWikipediaに載っているのは大蛇が美しい娘だったという話です(娘は琵琶湖に住む龍神一族の者)。
また、「俵藤太」の名の由来についても、相模国淘綾郡田原(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数あるようなので、この大量の米俵を土産にもらったことから名づけられたというのも諸説のうちのひとつということですね。
俵藤太秀郷の像の観光情報
住所 | 滋賀県大津市唐橋町23 |
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