大溝城の遺構はあまり残っていませんが、この野面積みの天守台石垣は数少ない遺構です。
案内板が建てられています。
大溝城とお初
大溝城は、織田信長が安土に壮大な城を築いていた頃、甥の信澄に築城させた城で、琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んだ水城です。設計は明智光秀と伝えられています。浅井三姉妹お初は、京極高次の正室としてこの大溝城で新婚生活を送り、水清く縁豊かな高島、ことに雪深い冬の風物を、厳しい中にも心豊かな郷土として楽しんだ事でしょう。
姉妹には数奇な運命を送った姉お茶々(淀殿・豊臣秀吉側室)、妹お江(崇源院・徳川秀忠継室)がいます。お初は名門京極家の正室として生涯を全うしましたが、大坂冬の陣では妹の側にいて家康の側室阿茶の局と共に徳川豊臣の和睦に尽力するなど優れた能力を発揮しました。
室町幕府の四職に列した名門京極家の女あるじとして一族の繁栄と家名の維持に努めた戦国時代には稀な才女であったとも言えます。戦国一の美女と謳われた母お市の方の美貌と知性を受け継いだ初はまた非常な美声の持ち主であったと伝えられています。
高次の死後、常高院となり生涯高次の菩提を弔ったあと京極家の江戸屋敷で天寿を全うしました。(享年六十六歳)平成二十三年五月 高島地域まちづくり委員会
史跡大溝城本丸跡
織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌(かずまさ)が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(一五七八)二月三日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄(のぶずみ)に宛行(あてが)い大溝城主とした。
城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正十年六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(一六一九)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部(にゅうぶ)した分部(わけべ)氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。
この大溝城本丸跡は、平成八年三月高島町指定文化財となった。平成八年三月 高島町教育委員会
天守台にのぼることができます。
けっこう崩れてしまってますが、大きな石がたくさん使われています。
この石は沖の島から筏に乗せて運ばせたと伝えられています。