米子城
米子城

[鳥取県][伯耆] 鳥取県米子市西町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.68(61位)
  • 見学時間:1時間8分(121位)
  • 攻城人数:465(136位)

米子城跡の案内板

米子城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。

国指定史跡
米子城跡(よなごじょうあと)

 近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正(てんしょう)19年(一五九一年)頃、吉川広家(きっかわひろいえ)が湊山(みなとやま)を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)び関ヶ原(せきがはら)の戦(たたかい)の後、広家は岩国に転封(てんぽう)隣、代わりに駿河(するが)から入った伯耆(ほうき)18万石の領主中村一忠(なかむらかずただ)によって慶長7年(一六〇二年)頃完成しました。
 中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場(さくじば)、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦(ふかうら)には水軍用の御船手郭(みふねでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷(さむらいやしき)が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓(しじゅうやぐら))を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗(そうれい)な城であったといわれています。
 明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(二〇〇六年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
 この湊山の大半は、昭和8年(一九三三年)に市内の素封家(そほうか)坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいせい)氏から寄贈を受けたものです。

                                  平成28年11月5日
                            寄贈 米子東ロータリークラブ

国指定史跡
米子城跡(よなごじょうあと)
 近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正19年(一五九一年)頃、吉川広家(きっかわひろいえ)が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長5年(一六〇〇年)の関ケ原の戦(たたかい)の後、広家は岩国に転封(てんぽう)となり、代わりに駿河(するが)から入った伯耆(ほうき)18万石の領主中村一忠(なかむらかずただ)によって慶長7年(一六〇二年)頃完成しました。
 中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場(さくじば)、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦(ふかうら)には水軍用の御船手郭(みふねでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷(さむらいやしき)が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓(しじゅうやぐら))を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗(そうれい)な城であったといわれています。
 中村氏の後、加藤貞泰(かとうさだやす)、池田由之(いけだよしゆき)と城主がかわり、寛永9年(一六三二年)からは、鳥取藩主席家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かりとなり、以後十一代にわたって荒尾氏が管理しました。
 明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(二〇〇六年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
 この湊山の大半は、昭和8年(一九三三年)に市内の素封家(そほうか)坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいせい)氏から寄贈を受けたおのです。平成28年11月5日
寄贈 米子東ロータリークラブ
以下は以前あった案内板です。

米子市指定史跡
米子城(よなごじょう)跡
 米子(よなご)城は、天正19年(一五九一年)から毛利(もうり)の一族吉川広家(きっかわひろいえ)が標高九〇、五mの湊山(みなとやま)を中心に築城を始め、頂上の四重櫓(しじゅうやぐら)と縄張(なわば)りの大体をつくった。その後、広家(ひろいえ)は岩国(いわくに)に移され、慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)伯耆(ほうき)一七・五万石領主中村一忠(なかむらかずただ)がさらに規模を拡大し、翌年完成した。城は、頂上の五重天守(ごじゅうてんしゅ)と四重櫓(しじゅうやぐら)を中心とする本丸(ほんまる)に、西北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を控え、山すその二(に)の丸(まる)を領主の館とし、その下の三(さん)の丸(まる)には内堀にかこまれて作事場(さくじば)、米蔵(こめぐら)、馬小屋などを建てた。また、裏側には、深浦湾(ふかうらわん)にのぞむ水軍用の曲輪(くるわ)をつくった。三(さん)の丸(まる)をこえた内堀と外堀の間は、侍屋敷(さむらいやしき)であった。
 城主は、中村(なかむら)氏以後、加藤貞泰(かとうさだやす)、池田由成(いけだよしなり)、そして、寛永(かんえい)から明治維新まで、鳥取(とっとり)藩首席家老荒尾(あらお)氏が十一代続いたが、その後間もなく、米子(よなご)の住人が買い取り、取り壊してしまった。
 この湊山(みなとやま)の土地の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいいせい)氏から寄贈を受けたものである。
 城跡の石垣は、昭和57年から59年にかけて修理し、復元した。
No.15 米子市

米子市指定史跡
米子城(よなごじょう)跡
 米子(よなご)城は、天正(てんしょう)19年(一五九一年)から毛利(もうり)の一族吉川広家(きっかわひろいえ)が標高九〇、五mの湊山(みなとやま)を中心に築城を始め、頂上の四十櫓(しじゅうやぐら)と縄張(なわば)りの大体をつくった。その後、広家(ひろいえ)は岩国(いわくに)に移され、慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)伯耆(ほうき)十七・五万石領主中村一忠(なかむらかずただ)がさらに規模を拡大し、翌年完成した。城は、頂上の五重天守(ごじゅうてんしゅ)と四十櫓(しじゅうやぐら)を中心とする本丸(ほんまる)に、西北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を控え、山すその二(に)の丸(まる)を領主の館とし、その下の三(さん)の丸(まる)には内堀にかこまれて作事場(さくじば)、米蔵(こめぐら)、馬小屋などを建てた。また、裏側には、深浦湾(ふかうらわん)にのぞむ水軍用の曲輪(くるわ)をつくった。三(さん)の丸(まる)をこえた内堀と外堀の間は、侍屋敷(さむらいやしき)であった。
 城主は、中村(なかむら)氏以後、加藤貞泰(かとうさだやす)。池田由成(いけだよしなり)、そして、寛永(かんえい)から明治維新まで、鳥取(とっとり)藩首席家老荒尾(あらお)氏が十一代続いたが、その後間もなく、米子(よなご)の住人が買い取り、取り壊してしまった。
 この湊山(みなとやま)の土地の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいいせい)氏から寄贈を受けたものである。
 城跡の石垣は、昭和57年から59年にかけて修理し、復元した。No.15 米子市
   
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今日のレビュー

冬を待つ城 (新潮文庫)

最近攻城したので臨場感が新鮮なまま読破できました。九戸政実の乱は籠城軍3000VS秀吉軍150000(諸説あり)。到底勝ち目のない戦に臨んだ政実公の大義や大軍を擁してまでも攻め入らせた石田三成の目論見に目から鱗。面白かったです。

弥一左衛門さん)

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