米子城は戦国時代初期には山名氏や尼子氏、毛利氏によって争われました。当時は飯山(いいのやま)に築かれた砦でしたが、毛利氏の時代に吉川広家が城主となり、現在の湊山に本格的な城が築かれました。本丸には4重の天守が建てられました。
「関ケ原の合戦」ののち、中村一氏の嫡男、中村一忠が初代米子藩主となっています。
一忠はあらたに4重5階の天守を建て、吉川氏時代の天守とあわせて、米子城は全国にも珍しい双頭の天守の城でした。
その後、中村氏が改易されると、替わって加藤貞泰が入りましたが、すぐに大洲藩に移されたため、米子藩は廃藩となっています。
以降は鳥取藩池田光政の所領となり、さらには池田光仲が光政との国替えで鳥取藩主になると、米子城は池田輝政の従弟にあたる、家老の荒尾氏が代々城代をつとめ、明治維新を迎えました。
米子城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1467年(応仁元年) | このころ、山名数之(やまなのりゆき)の配下、山名宗之(やまなむねゆき)(宗幸)が米子飯山砦を築いたと伝わる。 |
1470年(文明2年) | 伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定(あまごきよさだ)に逆襲されたため、米子城にこもる(『出雲私史』)。 |
1471年(文明3年) | 山名之定(やまなゆきさだ)米子城を守る。 |
1513年(永正10年) | 出雲の尼子経久(あまごつねひさ)、この頃から米子城などをしばしば攻める。 |
1524年(大永4年) | 尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主・行松正盛は城を去る(『伯耆民談記』)。 |
1562年(永禄5年) | このころから米子城などは毛利氏によって制圧される。米子城主は山名秀之か。 |
1571年(元亀2年) | 尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛(はくらまごべ)が米子城を攻め、城下を焼き打ちする。米子城主は福頼元秀。 |
1581年(天正9年) | 古曳吉種がこのころから米子城主になる(『伯耆民談記』では永禄12年から)。 |
1591年(天正19年) | 出雲・伯耆の領主、吉川広家(きっかわひろいえ)が米子湊山に築城開始。城主・古曳吉種(こびきよしたね)、築城奉行・祖式九右衛門。 |
1592年(文禄元年) | 吉川広家が古曳吉種とともに朝鮮役に従軍。吉種はこの年、文禄の役で戦死。 |
1598年(慶長3年) | 吉川広家が富田城に帰り、湊山築城を監督。米子港・深浦港整備もはじまる。 |
1600年(慶長5年) | 「関ケ原の戦い」の結果、吉川広家は周防国岩国へ転封され、中村一忠が伯耆一国17万5000石を領し、初代米子藩主となる。この年までに、米子城の工事は7割ぐらい進行(『戸田幸太夫覚書』)。 |
1601年(慶長6年) | 日野郡二部村理兵衛(足羽氏)に、日野川川船船頭を命じ、用材運搬と川浚人夫の差配をさせる。 |
1602年(慶長7年) | 中村一忠が尾高城から米子城に移る。 |
1603年(慶長8年) | 11月14日、中村一忠が執政家老・横田村詮(横田内膳)を誅殺。村詮の子や柳生宗章らがこれに反抗し、翌日、出雲富田城主・堀尾吉晴の応援で鎮定(「米子城騒動(中村騒動)」)。 |
1604年(慶長9年) | 幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政をとし、「米子城騒動」のきっかけをつくった安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にする。 |
1609年(慶長14年) | 5月11日、中村一忠が20歳で急死したため中村家は断絶。8月、監使として朝比奈源六ら派遣。城請け取り役古田大膳太夫重治、一柳監物直盛を派遣。10月、西尾豊後守光教ら3人を米子城在番に任命。 |
1610年(慶長15年) | 加藤貞泰が伯耆国の内、2郡6万石を領して藩主となる(中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治される)。 |
1615年(元和元年) | 幕府が一国一城令を発したが、米子城は保存と決まる。 |
1617年(元和3年) | 加藤貞泰、伊予国大洲に転封。因伯の領主となった池田光政の一族、池田由之が米子城預り(3万2千石)となる。城主交代監視役として、幕府から阿部四郎五郎を派遣。 |
1632年(寛永9年) | 池田光仲が因伯の領主になる。家老で下津井城主の荒尾成利が米子城代となり、成利の弟成政を米子につかわし、城の管理をさせる。 |
1652年(承応元年) | 荒尾成利が隠居し、2代成直が米子城代となる。 |
1665年(寛文5年) | 堀が埋まる害があるため、米子城の内堀に柴積み船の入ることを禁止。 |
1667年(寛永7年) | 米子城西北部外曲輪修理。 |
1672年(寛永12年) | 荒尾成直が米子城に入り、当年凶作の訴えを聞く。 |
1673年(寛永13年) | 城下侍屋敷の空家について、荒尾氏が米子町奉行に命じて適当に処分することを許可。 |
1679年(延宝7年) | 荒尾成政が死去。3代成重が米子城代となる。 |
1687年(貞享4年) | 米子蔵奉行三好勘兵衛ら私曲あり、押搦められる。 |
1692年(元禄5年) | 荒尾成重が死去。4代成倫が米子城代となる。 |
1693年(元禄6年) | 落雷などによる天守への危険を考慮し、米子城本丸天守近くの蔵に収蔵の火薬類を、内膳丸の角櫓に移す。 |
1697年(元禄10年) | 大風で米子城本丸四重櫓が1尺5寸ほど傾く。 |
1720年(元禄10年) | 米子城米蔵の約半数を大修理。壁・屋根部分に川石を主体として約2万個使用。 |
1723年(享保8年) | 城下郭内屋敷田31町歩余のうち、水利不足により畑に改めを認められたもの約3分の1。 |
1734年(享保19年) | 5代成昭が米子城代となる。 |
1746年(延享3年) | 幕府巡見使小幡亦十郎ら3人、米子を訪れ、荒尾成昭、饗応にあたる。 |
1747年(延享4年) | 6代成昌が米子城代となる。 |
1748年(寛延元年) | 7代成熈が米子城代となる。 |
1749年(寛延2年) | 御国目付榊原八兵衛、伯耆巡行。荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる。 |
1761年(宝暦11年) | 幕府巡見使阿部内記ら3人、米子を訪れ、荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる。 |
1763年(宝暦13年) | 米子城修覆米積立法を制定。以後、富豪の負担で1800石を積み立て、利米540石のうち、半額を城郭修覆にあてる。 |
1779年(安永8年) | 米子川口番所に鉄砲3挺、長柄5本を備える。 |
1787年(天明7年) | 8代成尚が米子城代となる。 |
1789年(寛政元年) | 幕府巡見使石尾七兵衛ら3人、米子を訪れ、荒尾成尚、米子城二の丸で饗応にあたる。 |
1796年(寛政8年) | 城下外郭筋堀の埋没を浚渫。以後、しばしば町人富豪に請け負わせる。 |
1806年(文化3年) | 伊能忠敬による米子町測量第1回。米子城郭内測量を米子役人が拒否する。 |
1818年(文政元年) | 9代成緒が米子城代となる。8月に米子入りし、約1ヶ月滞在。 |
1838年(天保9年) | 幕府巡見使諏訪縫殿之助ら、米子を訪れる。荒尾成緒、病気のため、家臣の牛尾九郎右衛門らが饗応にあたる。 |
1843年(天保14年) | 異国船警衛のため、荒尾成裕、父成緒に代わり米子城入りする。 |
1851年(嘉永4年) | 10代成裕が米子城代となる。 |
1852年(嘉永5年) | 四重櫓とその石垣、富豪鹿島家の負担により大修理される。 |
1867年(慶応3年) | 11代成富が米子城代となる。 |
1868年(慶応4年) | 2月、山陰道鎮撫総督西園寺公望と一行数百名、米子城下に入る。このころ、米子城の銃砲類の数、国産ミニエー銃53、御番筒530、種ヶ島10匁玉30、ゲベル銃50、ミネーケル銃60、唐銅砲19、その他計約800(加賀家控帳)。 |
1869年(明治2年) | 2月、荒尾氏自分手政治廃止の発令。町方下吟味役桑原伊平太らを米子に出張させる。4月、御用人鵜殿藤一郎以下多数が鳥取より出張し、実権引渡しと治安にあたる。5月、朝廷より米子城返上の命令あり。8月、米子城を藩庁に引き渡す。10月、荒尾成富、家督を成文に譲る。 |
1872年(明治5年) | 米子城山が、士族小倉直人らに払い下げとなる。 |
1873年(明治6年) | 城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される(天守などは尾高町山本新助が購入)。 |