米子城
米子城

[鳥取県][伯耆] 鳥取県米子市西町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.67(--位)
  • 見学時間:1時間8分(121位)
  • 攻城人数:445(137位)

米子城の歴史

米子城は戦国時代初期には山名氏や尼子氏、毛利氏によって争われました。当時は飯山(いいのやま)に築かれた砦でしたが、毛利氏の時代に吉川広家が城主となり、現在の湊山に本格的な城が築かれました。本丸には4重の天守が建てられました。

湊山山頂の天守跡[米子城]
提供:米子市教育委員会 | 湊山山頂の天守跡[米子城]

「関ケ原の合戦」ののち、中村一氏の嫡男、中村一忠が初代米子藩主となっています。
一忠はあらたに4重5階の天守を建て、吉川氏時代の天守とあわせて、米子城は全国にも珍しい双頭の天守の城でした。

その後、中村氏が改易されると、替わって加藤貞泰が入りましたが、すぐに大洲藩に移されたため、米子藩は廃藩となっています。
以降は鳥取藩池田光政の所領となり、さらには池田光仲が光政との国替えで鳥取藩主になると、米子城は池田輝政の従弟にあたる、家老の荒尾氏が代々城代をつとめ、明治維新を迎えました。

池田光仲

米子城の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
1467年(応仁元年)このころ、山名数之(やまなのりゆき)の配下、山名宗之(やまなむねゆき)(宗幸)が米子飯山砦を築いたと伝わる。
1470年(文明2年)伯耆の山名軍が出雲に乱入したが、尼子清定(あまごきよさだ)に逆襲されたため、米子城にこもる(『出雲私史』)。
1471年(文明3年)山名之定(やまなゆきさだ)米子城を守る。
1513年(永正10年)出雲の尼子経久(あまごつねひさ)、この頃から米子城などをしばしば攻める。
1524年(大永4年)尼子経久は山名澄之の援助と称して伯耆に攻め入り、米子城などが従えられ、尾高城主・行松正盛は城を去る(『伯耆民談記』)。
1562年(永禄5年)このころから米子城などは毛利氏によって制圧される。米子城主は山名秀之か。
1571年(元亀2年)尼子氏再興軍の羽倉孫兵衛(はくらまごべ)が米子城を攻め、城下を焼き打ちする。米子城主は福頼元秀。
1581年(天正9年)古曳吉種がこのころから米子城主になる(『伯耆民談記』では永禄12年から)。
1591年(天正19年)出雲・伯耆の領主、吉川広家(きっかわひろいえ)が米子湊山に築城開始。城主・古曳吉種(こびきよしたね)、築城奉行・祖式九右衛門。
1592年(文禄元年)吉川広家が古曳吉種とともに朝鮮役に従軍。吉種はこの年、文禄の役で戦死。
1598年(慶長3年)吉川広家が富田城に帰り、湊山築城を監督。米子港・深浦港整備もはじまる。
1600年(慶長5年)「関ケ原の戦い」の結果、吉川広家は周防国岩国へ転封され、中村一忠が伯耆一国17万5000石を領し、初代米子藩主となる。この年までに、米子城の工事は7割ぐらい進行(『戸田幸太夫覚書』)。
1601年(慶長6年)日野郡二部村理兵衛(足羽氏)に、日野川川船船頭を命じ、用材運搬と川浚人夫の差配をさせる。
1602年(慶長7年)中村一忠が尾高城から米子城に移る。
1603年(慶長8年)11月14日、中村一忠が執政家老・横田村詮(横田内膳)を誅殺。村詮の子や柳生宗章らがこれに反抗し、翌日、出雲富田城主・堀尾吉晴の応援で鎮定(「米子城騒動(中村騒動)」)。
1604年(慶長9年)幕府の命によって佐藤半左衛門、河毛備後を米子城の執政をとし、「米子城騒動」のきっかけをつくった安井清一郎、天野宗把、道長長右衛門を死罪にする。
1609年(慶長14年)5月11日、中村一忠が20歳で急死したため中村家は断絶。8月、監使として朝比奈源六ら派遣。城請け取り役古田大膳太夫重治、一柳監物直盛を派遣。10月、西尾豊後守光教ら3人を米子城在番に任命。
1610年(慶長15年)加藤貞泰が伯耆国の内、2郡6万石を領して藩主となる(中村氏旧領の残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治される)。
1615年(元和元年)幕府が一国一城令を発したが、米子城は保存と決まる。
1617年(元和3年)加藤貞泰、伊予国大洲に転封。因伯の領主となった池田光政の一族、池田由之が米子城預り(3万2千石)となる。城主交代監視役として、幕府から阿部四郎五郎を派遣。
1632年(寛永9年)池田光仲が因伯の領主になる。家老で下津井城主の荒尾成利が米子城代となり、成利の弟成政を米子につかわし、城の管理をさせる。
1652年(承応元年)荒尾成利が隠居し、2代成直が米子城代となる。
1665年(寛文5年)堀が埋まる害があるため、米子城の内堀に柴積み船の入ることを禁止。
1667年(寛永7年)米子城西北部外曲輪修理。
1672年(寛永12年)荒尾成直が米子城に入り、当年凶作の訴えを聞く。
1673年(寛永13年)城下侍屋敷の空家について、荒尾氏が米子町奉行に命じて適当に処分することを許可。
1679年(延宝7年)荒尾成政が死去。3代成重が米子城代となる。
1687年(貞享4年)米子蔵奉行三好勘兵衛ら私曲あり、押搦められる。
1692年(元禄5年)荒尾成重が死去。4代成倫が米子城代となる。
1693年(元禄6年)落雷などによる天守への危険を考慮し、米子城本丸天守近くの蔵に収蔵の火薬類を、内膳丸の角櫓に移す。
1697年(元禄10年)大風で米子城本丸四重櫓が1尺5寸ほど傾く。
1720年(元禄10年)米子城米蔵の約半数を大修理。壁・屋根部分に川石を主体として約2万個使用。
1723年(享保8年)城下郭内屋敷田31町歩余のうち、水利不足により畑に改めを認められたもの約3分の1。
1734年(享保19年)5代成昭が米子城代となる。
1746年(延享3年)幕府巡見使小幡亦十郎ら3人、米子を訪れ、荒尾成昭、饗応にあたる。
1747年(延享4年)6代成昌が米子城代となる。
1748年(寛延元年)7代成熈が米子城代となる。
1749年(寛延2年)御国目付榊原八兵衛、伯耆巡行。荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる。
1761年(宝暦11年)幕府巡見使阿部内記ら3人、米子を訪れ、荒尾成熈、米子城二の丸で饗応にあたる。
1763年(宝暦13年)米子城修覆米積立法を制定。以後、富豪の負担で1800石を積み立て、利米540石のうち、半額を城郭修覆にあてる。
1779年(安永8年)米子川口番所に鉄砲3挺、長柄5本を備える。
1787年(天明7年)8代成尚が米子城代となる。
1789年(寛政元年)幕府巡見使石尾七兵衛ら3人、米子を訪れ、荒尾成尚、米子城二の丸で饗応にあたる。
1796年(寛政8年)城下外郭筋堀の埋没を浚渫。以後、しばしば町人富豪に請け負わせる。
1806年(文化3年)伊能忠敬による米子町測量第1回。米子城郭内測量を米子役人が拒否する。
1818年(文政元年)9代成緒が米子城代となる。8月に米子入りし、約1ヶ月滞在。
1838年(天保9年)幕府巡見使諏訪縫殿之助ら、米子を訪れる。荒尾成緒、病気のため、家臣の牛尾九郎右衛門らが饗応にあたる。
1843年(天保14年)異国船警衛のため、荒尾成裕、父成緒に代わり米子城入りする。
1851年(嘉永4年)10代成裕が米子城代となる。
1852年(嘉永5年)四重櫓とその石垣、富豪鹿島家の負担により大修理される。
1867年(慶応3年)11代成富が米子城代となる。
1868年(慶応4年)2月、山陰道鎮撫総督西園寺公望と一行数百名、米子城下に入る。このころ、米子城の銃砲類の数、国産ミニエー銃53、御番筒530、種ヶ島10匁玉30、ゲベル銃50、ミネーケル銃60、唐銅砲19、その他計約800(加賀家控帳)。
1869年(明治2年)2月、荒尾氏自分手政治廃止の発令。町方下吟味役桑原伊平太らを米子に出張させる。4月、御用人鵜殿藤一郎以下多数が鳥取より出張し、実権引渡しと治安にあたる。5月、朝廷より米子城返上の命令あり。8月、米子城を藩庁に引き渡す。10月、荒尾成富、家督を成文に譲る。
1872年(明治5年)米子城山が、士族小倉直人らに払い下げとなる。
1873年(明治6年)城内の建物類が売却され、数年後、取り壊される(天守などは尾高町山本新助が購入)。
   
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