米子城
米子城

[鳥取県][伯耆] 鳥取県米子市西町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.71(40位)
  • 見学時間:1時間6分(63位)
  • 攻城人数:1450(126位)

天守の東屋にある案内板

天守の東屋にある案内板
かるちゃん(仮名) かるちゃん(仮名)

平成28年11月に、地元の米子東ロータリークラブの寄贈を受けて更新したものです。

   

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カメラ情報

機種名SONY ILCA-77M2
ISO100
F値5.6
ホワイトバランス曇り
シャッタースピード
レンズ焦点距離45.0 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/80
画像方向

文字起こし

国指定史跡
米子城跡(よなごじょうあと)

 近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正(てんしょう)19年(一五九一年)頃、吉川広家(きっかわひろいえ)が湊山(みなとやま)を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)び関ヶ原(せきがはら)の戦(たたかい)の後、広家は岩国に転封(てんぽう)隣、代わりに駿河(するが)から入った伯耆(ほうき)18万石の領主中村一忠(なかむらかずただ)によって慶長7年(一六〇二年)頃完成しました。
 中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場(さくじば)、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦(ふかうら)には水軍用の御船手郭(みふねでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷(さむらいやしき)が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓(しじゅうやぐら))を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗(そうれい)な城であったといわれています。
 明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(二〇〇六年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
 この湊山の大半は、昭和8年(一九三三年)に市内の素封家(そほうか)坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいせい)氏から寄贈を受けたものです。

                                  平成28年11月5日
                            寄贈 米子東ロータリークラブ

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