平成28年11月に、地元の米子東ロータリークラブの寄贈を受けて更新したものです。
機種名 | SONY ILCA-77M2 |
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ISO | 100 |
F値 | 5.6 |
ホワイトバランス | 曇り |
シャッタースピード | |
レンズ焦点距離 | 45.0 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/80 |
画像方向 |
国指定史跡
米子城跡(よなごじょうあと)近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正(てんしょう)19年(一五九一年)頃、吉川広家(きっかわひろいえ)が湊山(みなとやま)を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)び関ヶ原(せきがはら)の戦(たたかい)の後、広家は岩国に転封(てんぽう)隣、代わりに駿河(するが)から入った伯耆(ほうき)18万石の領主中村一忠(なかむらかずただ)によって慶長7年(一六〇二年)頃完成しました。
中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場(さくじば)、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦(ふかうら)には水軍用の御船手郭(みふねでくるわ)を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷(さむらいやしき)が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓(しじゅうやぐら))を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗(そうれい)な城であったといわれています。
明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18年(二〇〇六年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
この湊山の大半は、昭和8年(一九三三年)に市内の素封家(そほうか)坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいせい)氏から寄贈を受けたものです。平成28年11月5日
寄贈 米子東ロータリークラブ
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