米子城
米子城

[鳥取県][伯耆] 鳥取県米子市西町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.72(39位)
  • 見学時間:1時間6分(63位)
  • 攻城人数:1452(126位)

城跡説明

城跡説明
ぴんぞう ぴんぞう
   

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カメラ情報

機種名samsung SC-02H
ISO50
F値1.7
ホワイトバランスオート
シャッタースピード
レンズ焦点距離4.2 mm
フラッシュフラッシュ未発光
露出モード自動露出
露出時間1/922
画像方向水平(標準)

文字起こし

米子市指定史跡
米子城(よなごじょう)跡
 米子(よなご)城は、天正19年(一五九一年)から毛利(もうり)の一族吉川広家(きっかわひろいえ)が標高九〇、五mの湊山(みなとやま)を中心に築城を始め、頂上の四重櫓(しじゅうやぐら)と縄張(なわば)りの大体をつくった。その後、広家(ひろいえ)は岩国(いわくに)に移され、慶長(けいちょう)5年(一六〇〇年)伯耆(ほうき)一七・五万石領主中村一忠(なかむらかずただ)がさらに規模を拡大し、翌年完成した。城は、頂上の五重天守(ごじゅうてんしゅ)と四重櫓(しじゅうやぐら)を中心とする本丸(ほんまる)に、西北の内膳丸(ないぜんまる)、東の飯山(いいのやま)を控え、山すその二(に)の丸(まる)を領主の館とし、その下の三(さん)の丸(まる)には内堀にかこまれて作事場(さくじば)、米蔵(こめぐら)、馬小屋などを建てた。また、裏側には、深浦湾(ふかうらわん)にのぞむ水軍用の曲輪(くるわ)をつくった。三(さん)の丸(まる)をこえた内堀と外堀の間は、侍屋敷(さむらいやしき)であった。
 城主は、中村(なかむら)氏以後、加藤貞泰(かとうさだやす)、池田由成(いけだよしなり)、そして、寛永(かんえい)から明治維新まで、鳥取(とっとり)藩首席家老荒尾(あらお)氏が十一代続いたが、その後間もなく、米子(よなご)の住人が買い取り、取り壊してしまった。
 この湊山(みなとやま)の土地の大半は、市内の素封家坂口平兵衛意誠(さかぐちへいべえいいせい)氏から寄贈を受けたものである。
 城跡の石垣は、昭和57年から59年にかけて修理し、復元した。
No.15 米子市

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平安京の四〇〇年:王朝社会の光と陰

10月の定期ライブで榎本先生が推薦され、かつ来年の大河ドラマが平安時代が舞台と言うことで、予習のつもりで手に取りました。はっきり言って平安時代に関する知識はあまり有りませんでしたが、この著書には桓武天皇が都を平安京に移してから、摂関政治、院政、そして武士の時代までの約400年の貴族の権力闘争や平安京に住む人びとの営みを知る事が出来ました。特に関心を持ったのは平安京のトイレ事情で、汚い話もあり詳細は割愛しますが、テレビや映画ではなかなかお目にかかれない事なので興味深く読ませて頂きました。来年の大河まで時間はそう有りませんが、その前に是非読んでおく一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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