郡上八幡城跡内に八幡城の沿革の案内板がありましたので、内容を紹介します。
八幡城の沿革
永禄2年(一五五九)遠藤盛数が東殿山(市街地南方)の東家を滅し八幡城を築いたのがこの城の創始である。後、秀吉が天下を統一し、領地二万石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けた。やがて関ケ原合戦が起ると遠藤慶隆は家康に味方し、慶長五年(一六〇〇)再び遠藤氏が城主となった
元禄五年(一六九二)遠藤氏後嗣なく没収せられ常陸より井上正任が城主(四万石)となって来封したが間もなく同十一年金森頼時(かなもりよりとき)がこれに代って封せられた。宝暦八年金森頼錦の晩年になって失政のため農民困窮甚だしくついに金森騒動宝暦義民の一揆が起り、そのため一家は断絶され、同年丹後国宮津の城主青山幸道(あおやまよしみち)が代って郡上藩主となり八幡城下四万八千石を領することになった その後藩政よく治ってその後明治維新によって廃城となり、昭和八年旧跡に模擬天守閣が作られたのである