郡上八幡城は1559年(永禄2年)の遠藤盛数による築城以来、遠藤家、井上家、金森家、青山家らが城主をつとめました。
ちなみに郡上八幡城の城主は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と深く関係しています。
「本能寺の変」によって信長が亡くなったあと、遠藤家は織田信孝の傘下に属していたため、権力者となった羽柴秀吉によって追放されます。当時の城主は遠藤慶隆でした。
かわって入ったのが稲葉貞通です。貞通は「本能寺の変」の際には京都にいましたが、信長が殺されたことを知ると京都を脱出して難を逃れました。
なお、貞通の時代に郡上八幡城は大改修をおこない、近世城郭として整備されました。
1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」では、貞通は当初西軍に属していたこともあり(のちに東軍に寝返る)、ふたたび慶隆が城主として郡上八幡城に戻ってきます。
慶隆は2代城主と4代城主をつとめたということになります。
江戸時代に入ってからは遠藤氏のあと、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷しています。このなかにはのちの老中、井上正岑などもいました。
郡上八幡城の歴代城主
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
---|---|---|---|
1 | 1559年(永禄2年) | 遠藤盛数(もりかず) | |
2 | 1562年(永禄5年) | 遠藤慶隆(よしたか) | |
3 | 1588年(天正16年) | 稲葉貞通(さだみち) | |
4 | 1600年(慶長5年) | 遠藤慶隆(よしたか) | 関ケ原合戦に遊軍として参加し、11月に再び八幡城主となる |
5 | 1632年(寛永9年) | 遠藤慶利(よしとし) | |
6 | 1646年(正保3年) | 遠藤常友(つねとも) | |
7 | 1676年(延宝4年) | 遠藤常春(つねはる) | |
8 | 1689年(元禄2年) | 遠藤常久(つねひさ) | 幕府の許可をうけて八幡城の大修築を実施。城下を拡張整備し「城主格」から「城主」の称をゆるされた。 |
9 | 1692年(元禄5年) | 井上正任(まさとう) | |
10 | 1693年(元禄6年) | 井上正岑(まさみね) | |
11 | 1697年(元禄10年) | 金森頼峕(頼時)(よりとき) | |
12 | 1736年(元文元年) | 金森頼錦(よりかね) | 宝暦騒動(郡上一揆)が起き、1758年(宝暦4年)金森家断絶。 |
13 | 1758年(宝暦8年) | 青山幸道(よしみち) | |
14 | 1775年(安永4年) | 青山幸完(よしさだ) | |
15 | 1791年(完成3年) | 青山幸孝(ゆきたか) | |
16 | 1816年(文化13年) | 青山幸寛(ゆきひろ) | |
17 | 1832年(天保3年) | 青山幸礼(ゆきのり) | |
18 | 1838年(天保9年) | 青山幸哉(ゆきしげ) | |
19 | 1863年(文久3年) | 青山幸宣(ゆきより) |