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=いつも沢山のあっぱれありがとうございます=

コロナ禍以降お城に出かける回数がぐっとへってしまいましたが
昨年からドローンを飛ばしてくれる相棒をみつけたので、
空撮に力を入れることにしました。
空から城址の全体を撮影して、縄張図と見比べると新しい発見があって感動しちゃいます。
普段あまり見られない映像を皆さんにシェア出来たらなと思っています。


★プロフ★群馬県在住♀、趣味は城めぐりとラリー(モータースポーツ)
「むぎの城さんぽ」というブログを書いています。Twitterも同じアイコンです。
「むぎとうしの歴史さんぽ」というYouTubeチャンネルでドローンでのお城郭の紹介や城郭の面白ネタ動画を毎週金曜日交互に配信しています。

むぎさんの攻城記録一覧(履歴)

団員のみなさんの個人ブログに最近投稿された攻城日記です。

リンク先の内容や安全性は攻城団が保証できかねますのでくれぐれもご注意ください
 麻場城

麻場城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【麻場城】あさばじょう【別名】白倉城・浅場城・白蔵城【構造】平山城【築城者】白倉氏【築城年代】室町時代中期【指定史跡】町指定史跡【場所】甘楽郡甘楽町白倉地図【空撮】むぎとうしの歴史さんぽ豪族白倉氏の居城であり、戦国時代に築城され豊臣秀吉の小田原征伐の時前田利家に攻め落とされるまでの期間活躍していた城とされています。入口公園を利用するために後から造られた登り口。ここから坂を登って本丸目指します。駐車場駐車場完備です。数台停めることが出来ます。登城口ここは公園整備の際造られた登城口で、古くからある道ではないそうです。他にも城内への入口はありますが、民家の庭先だったり、農家の畑の道からだったりするのでここから入城するのが一般的になります。堀切に架かる橋坂道を登ると堀切と帯曲輪が見えて来ます。堀切に架かる橋です。...麻場城(群馬県)

 大友城

大友城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【城】おおともじょう【別名】-【構造】平城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】-【場所】群馬県前橋市大友町2丁目16−12地図長尾景俊の城館と伝わります。長見寺を含め、現在日の出公園となる辺りまで城館としていました。周囲を囲むように堀と土居が廻り、四角形の単郭であったことが分かっていますがこの城に関してのその他の詳細はあまり明らかになっていません。長見寺を目標にやって来ました。長見寺長見寺へやって来たのですが、境内に入るのはちょっと躊躇われる雰囲気の門構えだったので、敷地には入らずに外から眺めるだけに留めました。主郭日本城郭大系のその他の城郭一覧の395番に掲載されているのですが、近年まで土居があったと書いてあります。周囲を見渡すと…土塁長見寺の入口で振り返ってみるとかわいらしい土盛があるじゃありま...大友城(群馬県)

 村山城

村山城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【村山城】むらやまじょう【別名】-【構造】平城【築城者】村山佐渡守【築城年代】天文年間【指定史跡】-【場所】群馬県前橋市元総社町2丁目12−18地図大友城とほど近いぎんなん公園とそよかぜ公園の中程に位置する場所に村山城があったと伝わります。現在、遺構は消滅し、かつての手掛かりであった「村山の二本杉」も枯れ果て城址であったことは現地を訪れても、残念ながらまったく感じられるものはありません。縄張図群馬県古城塁祉の研究(山崎一著)に縄張図があるのですが、これと現代の地図で見ても想像が難しいほど、辺りは街と化しています。ぎんなん公園よく城址が公園化していることがあるのですが、こちらはあくまでも目安に過ぎず、ここが城址なわけではありません。※ここから南が本丸です。こんもりと土盛がありますが…期待するものではありませ...村山城(群馬県)

 三津屋城

三津屋城(大阪府) - むぎの城さんぽ

【三津屋城】みつやじょう【別名】中島城【構造】平城【築城者】楠木正行【築城年代】1336年~1338年(延元年間)【指定史跡】ー【場所】大阪府大阪市淀川区三津屋中1丁目6地図三津屋城は、南北朝時代の城で楠木正行によって1336年~1338年(延元年間)に築城されたと伝わります。現在の光専寺一帯に城が存在したことを地名から読み取ることが出来ます。路地を入ったところに山門が見えます。子孫である末弘治郎左衛門が1453年(文明5年)に本願寺8代法主蓮如上人に帰依し、開基したと伝わります。山門ここは光専寺であり、境内には保育園があります。それだけにこれ以上中の写真は遠慮しておきました。案内板塀には三津屋城があったという伝承の案内板があります。入り組んだ路地を入って行くこともあり、駐車場もなくカメラを持って歩くにも...三津屋城(大阪府)

 栗田城

栗田城(長野県) - むぎの城さんぽ

【栗田城】くりたじょう【別名】堀之内城【構造】平城【築城者】栗田仲国【築城年代】鎌倉時代【指定史跡】-【場所】長野市大字栗田482地図栗田城は村上一族の栗田氏居城で、栗田寛覚の子「仲国」が築城以来戦国時代末期まで代々居城としました。「川中島の戦い」では武田方につき、旭山城に入って戦いました。その後、甲斐に移り栗田城は廃城となりました。鳥居日吉神社(栗田神社)の鳥居です。公園になっているので、この日も親子が遊んでいていました。カメラを持ったあやしいおばちゃんの来る場所ではないです^^;でも、おじゃましま~す案内看板わりと新しい感じの看板です。栗田城址を整備する会が立てた案内看板です。栗田城址想定図栗田城は現在この公園に神社とともに残る土塁が遺構として残っていますが本来は宅地になっている部分も含めると、結構広...栗田城(長野県)

 伊勢崎城

伊勢崎城(長野県) - むぎの城さんぽ

【伊勢崎城】いせざきじょう【別名】虚空蔵城・伊勢崎砦【構造】山城【築城者】不明【築城年代】不明【指定史跡】-【場所】上田市上野上野原地図伊勢崎城は矢沢城などと同様に戸石城の支城として使われていたと考えられています。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠軍が上田城を攻めた時に真田昌幸は神川の水を堰き止め、虚空蔵山に兵を隠し、堰を切って徳川軍に大打撃を与えたと伝わる場所です。果樹園南側のローマン橋の袂から登るルートがあるのですが楽して車で反対側(北側)の果樹園からの登城です。この舗装路の途中で南側の林の中を覗き込むと、宮坂武男氏の鳥瞰図には載っていない石積みが見えます。石垣も後世のもとされているので古いものかどうかわかりません。果樹園を区切るものとして使用されていたのかもしれませんが、ちょっとワクワ...伊勢崎城(長野県)

 川田城

川田城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【川田城】かわだじょう【別名】下川田城【構造】崖端城【築城者】川田四郎景信【築城年代】不明【指定史跡】市指定史跡【場所】群馬県沼田市下川田町792地図川田城は三浦系沼田氏6代景久の4男である川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられます。川田公民館から北は遷流寺、東は薬師堂にまでまたがる広大な地域で、本丸は五角形で堀を巡らせ、帯曲輪が構築された特徴的な構造でした。沼田城の西の守りとして真田軍と北条軍の激戦地であったとされ、多くの地侍が討死しています。後に、一国一城令により川田城は廃城となりました。三浦系沼田氏の祖は1247年(宝治元年)の執権北条氏・安達氏と三浦氏の争い「宝治合戦」で北条氏に追われこの地に逃れてきた三浦泰村の次男景泰と伝わります。遠景北東側から見た川田城の東先端です。半月型の小郭が突き出て...川田城(群馬県)

 富岡城

富岡城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【富岡城】とみおかじょう【別名】城山【構造】山城【築城者】富岡氏【築城年代】戦国期【指定史跡】ー【場所】群馬県富岡市上高尾地図【御城印】あり富岡城は丘陵頂部の斜面に盛り土して造成され、縦堀と横堀が配された戦国期の城郭です。高田川側からは急崖で、かつては西と北東に堀切があったとされますが簡単な造りであったことから現在は確認することが難しく現代の改変により原形はみられない。県道より西側にある城山公園にある十王山の砦がこの城の烽火台であったのではないかと考えられています。県道10号線から東に入ると、そこから更に南に入ります。入口軽自動車でも両サイド小枝で擦る状態ですが、とりあえず鉄塔までは車で突き進むことが出来ます。鉄塔先ず目標としていた鉄塔までやって来ました。道はまだ続いてますが、ひとまず車で入って来れるのは...富岡城(群馬県)

 天神城

天神城(群馬県) - むぎの城さんぽ

【天神城】てんじんじょう【別名】ー【構造】崖端【築城者】沼田顕泰【築城年代】1557年(弘治3年)【指定史跡】ー【場所】群馬県利根郡川場村天神地図【御城印】あり沼田城主沼田顕泰が三男朝憲に家督を譲り、末子平八郎を連れて1557年(弘治3年)に隠居城として築城された天神城へ移ったと伝わります。しかし、顕泰(長尾派)の嫡子である朝憲(北条派)を殺害したことで対立し、川場合戦が勃発。多勢に無勢で顕泰は平八郎を連れて会津の蘆名氏を頼り落ちて行きました。会津に落ちた顕泰は、その後長尾景虎を頼りに越後へ移り沼田城を奪還し再び沼田城主として入城しています。富士山横塚線を走っていると天神地区に入ったところで城址への案内の矢印看板を発見!某マップではここで曲がれと言ってくれないので駐車場へは案内してもらえず本丸下で行き止ま...天神城(群馬県)

 狩宿城

狩宿城(愛知県) - むぎの城さんぽ

【狩宿城】かりじゅくじょう【別名】狩宿古村城【構造】平城【築城者】林弥助【築城年代】1324年~1326年(正中年間)【指定史跡】ー【場所】愛知県尾張旭市狩宿町4丁目17地図狩宿城は尾張旭七城のひとつで、詳しいことはわかっていませんが林弥助の城と伝わります。1661年~1673年(寛文年間)には既に古城とされ、江戸時代には百姓屋敷になっていました。農民の中でも裕福な階層の人が居住していたのではないかと推測されています。狩宿第2ちびっ子広場狩宿第2ちびっ子広場に案内看板があるということでこの公園にやって来ました。公園では親子で遊んでいるところにお邪魔しました。案内看板公園内にある案内看板。狩宿村絵図この絵図から見ると位置的には、城域はこの場所よりもう少し南にあったようです。狩宿観音堂絵図に描かれていた「観世...狩宿城(愛知県)

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今日のレビュー

悪党の戦旗 嘉吉の乱始末 (日経文芸文庫)

嘉吉元年1441年、時の将軍足利義教が赤松一族に殺される、いわゆる、嘉吉の乱からはじまる物語です。
播磨、備前、美作の守護を領していた大大名が、何故時の将軍を討ったのか、結果、討ち滅ぼされてから、お家再興のため、悪党と呼ばれながらも時代の流れに抗う様が描かれております。
昔よくいったお祭り、奇祭さいれん坊主が赤松一族の霊を弔うものとは知りませんでした。

デュラけんさん)

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