いわゆる「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」がじつは九本槍だったという話があるそうです。
「賤ヶ岳の戦い」といえば、天正11年(1583年)に行われた、羽柴秀吉と柴田勝家との合戦で、この戦いに勝利した秀吉は織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけたわけですが、この合戦において功名をあげた福島正則や加藤清正らはのちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれます。
じっさいにはこんなメンバーです。メンバーとか書くとバンドっぽいですけど。
ただし、このときに七本槍のメンバーと同様に秀吉から感状を得て、数千石の禄を得た武将として、石川兵助一光(?~1583年)と桜井佐吉(?~1586年)の2名がいます。
つまりほんとうは「賤ヶ岳の九本槍」ということなんですが、それがなぜ「七本槍」になったのかというと、語呂がいいからということと、漏れたふたりはすでに亡くなっていたからということが理由のようですね。石川兵助は「賤ヶ岳の戦い」で戦死、桜井佐吉も合戦の際に受けた傷がもとで3年後に没したため、選ばれなかったようです。
ということは桜井佐吉が亡くなる1586年までは「賤ヶ岳の七本槍」の呼び名はなかったのかもしれません。
1586年というと「小牧・長久手の戦い」も終わって、九州征伐の頃ですね。
ちなみに彼ら以外にも「先懸之衆」として石田三成や大谷吉継、一柳直盛たち羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたという記録が『一柳家記』に残っています。
またおもしろい話としては七本槍の筆頭ともいえる福島正則は「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられていて、当の本人たちはあまり誇らしくは思ってなかったようですね。
そして彼らは良くも悪くも秀吉の子飼いとして世間に知られたため、脇坂氏をのぞいて大半が徳川政権になってから御家取り潰しなどのひどい仕打ちを受けています。
福島正則にバカにされた脇坂安治の一族が生き残ったというのもおもしろいですね。脇坂安治は七本槍のメンバーでいちばん年長だったので、立ち回りがうまかったのかもしれません。
(じっさい脇坂安治も「関ケ原の戦い」では西軍についていたものの、小早川秀秋の裏切りに便乗して東軍に寝返っています)
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