昨日は「本能寺の変」当時の本能寺を紹介しましたが、今日は現在の本能寺です。
烏丸御池から、御池通りを河原町方面に歩いていくと現在の本能寺に辿りつけます。徒歩で20分ちょっとでしょうか。
途中、「在原業平邸址」の石碑がありました。
京都の街中を歩いているとこんなふうにいきなり教科書に出てきたような人の名前が書かれた石碑が出てくるんですよね。これが1000年をこえる都が持つ歴史のすごさなんでしょうね。
前方に「大本山 本能寺」と書かれた青い看板が見えてくるのですが、そこまでいかずに一本手前で曲がります。
ちょうど商店街になっているのですぐにわかると思います。本能寺の入口は入ってすぐのところにあります。 信長の廟所があると書いてあります。 入口にあった立て札です。 中に入ってまっすぐ進むと本堂がありますが、その手前の社務所の前に「臥牛石」があります。 加藤清正が寄進したそうです。たしかに牛に見えますね。 これが本堂です。本堂の右脇を進みましょう。 これが織田信長の廟所(信長廟)です。もちろん遺体が見つからなかったので、ここには信長所持の太刀が納められているそうです。 ちなみに信長がなぜ本能寺を定宿にしていたのかというと、いくつかの理由があるそうです。 ひとつは本能寺は城郭寺院と呼ばれる、高い塀と深い堀で囲われた防御の備えがしっかりしている寺であったことがあります。もうひとつは当時の貫主だった日承上人(にちじょうしょうにん)が天皇の親戚(伏見宮家出身)だったので、信長は日承に帰依して仏教を学び、さらには天皇家とのつながりを築こうとしていたことです。 そしてこれはぼくも知らなかったのですが、本能寺は早くから種子島に布教していたことから、檀家の貿易商を通じて鉄砲・火薬の入手が容易だったため、信長は彼らを鉄砲・火薬の調達ルートと考えていたそうです。 この当時(天正10年、1582年)であれば国友や堺といった生産地もありましたし、「長篠の戦い」における3000丁はウソだとしてもかなりの数の鉄砲を信長は所有していたはずなので、火薬の調達が主目的だったんですかね。 (ちなみに火薬も15世紀後半の日本で生産されており朝鮮との交易における輸出品となっていたことが文献から窺えるという話もあるそうです) 現在の本能寺は寺町御池という繁華街に近いところにあるので、京都にお越しの際はぜひ立ち寄って、信長公のお墓参りをしてください。 二条城や京都御所からもタクシーなら10分ちょっとで着くはずですよ。「最近のひとこと」のようにカジュアルに攻城時の思い出などを投稿できる「城活ノート」を公開しました。
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