攻城団からのお知らせ

黒田官兵衛と「石垣原の戦い」

来年の大河ドラマに決まった黒田官兵衛のムックが出てたので買っちゃいました。

photo
黒田官兵衛 鮮烈な生涯 (歴史探訪シリーズ 13・晋遊舎ムック)

特集には「知略が冴え渡る官兵衛七番勝負」として、以下の7つの合戦が紹介されています。

  1. 三木城兵糧攻め(三木の干殺し)
  2. 鳥取城兵糧攻め(鳥取の渇え殺し)
  3. 備中高松城水攻め
  4. 山崎の戦い
  5. 四国征伐
  6. 九州征伐
  7. 石垣原の戦い
いずれも秀吉の軍師になってからの合戦ばかりですが、「石垣原(いしがきばる)の戦い」は知りませんでした。 正確には関ケ原の合戦の裏で、当時すでに隠居していた官兵衛が九州を攻め取って、天下取りを狙おうとしたのは知ってましたが、その際の大友義統(よしむね)との戦いを「石垣原の戦い」というんですね。 この戦いを含む、官兵衛の九州での合戦をまとめて「九州の関ケ原」と表現することもあります。

今日はこの「石垣原の戦い」について紹介します。

photo

官兵衛はただ単に関ケ原の合戦の混乱に乗じて挙兵したわけではないそうです。
そもそも兵がいませんしね(当主の長政が主だった家臣も引き連れて参戦しているため)。
そこで官兵衛が最初にやったことは兵を集めることです。蓄財していた金銀を投げ出して寡兵します。その結果、短期間に浪人や百姓など9000人を集めたとされています。

そして官兵衛がこの手勢を率いて豊後を攻めようとしたときに、大友義統が旧領回復を企んで杵築城を攻めます。
杵築城は細川忠興の城なんですけど、忠興は丹後(京都府北部)が本拠地で、ここは飛び地として所領していました。このときは細川家の家臣である松井康之らが守っていたそうですが、大友軍には旧臣たちが集結しており、3000人を越える軍勢になっていたので杵築城は落城寸前でした。そこを官兵衛が救援に向かったというわけです(忠興は官兵衛を信用していて「もしもの際は官兵衛を頼るように」と城将に指示していたそうです)。

大友軍を押し戻した官兵衛はそのまま軍を進め、石垣原で決戦し、これをやぶっています。これが「石垣原の戦い」です。
ちょうどこの日(9月15日)は関ケ原で家康が西軍に勝利した日でもあります。官兵衛に運がなかったのはまさにこの点で、関ケ原の合戦がたった一日で終わってしまったということです。もしこの戦いが長期化していれば、官兵衛は一気に九州を征服し、そのまま京に攻めのぼることもできたというのに。

けっきょく東軍勝利を知った官兵衛はここから野心を伏せて、というかごまかして、最初から家康のために戦っていたかのように振る舞います。さすがの機転というほかありませんね。
官兵衛は豊後、豊前、筑後と平定し、柳川城の立花宗茂も降服させて、あとは薩摩の島津だけになったときに家康から停戦命令が届きます(11月12日)。

こうして9月9日の挙兵から2カ月、11月18日に官兵衛は中津に戻り、「九州の関ケ原」は終結しました。

天下を取るには運が必要、というのはよくいわれることですけど、官兵衛を見るとそれを強く感じます。秀吉に「自分が死んだあと、天下を取るのは官兵衛だ」と恐れられるほどの知略を備え、勝負どころでの勇気や大胆さもあわせもち、それでも天下は取れませんでした。

もうひとつ、官兵衛は野心家というイメージがありますが、じっさいには主君を裏切ったことは一度もありません。小大名だった小寺家に尽くし(しかしその小寺政職に裏切られます)、その後も秀吉のために尽くしました。
荒木村重が謀反を起こした際も、説得に向かった官兵衛は村重の誘いに乗ることなく捕縛されます(このときに足が不自由になってます)。むしろ忠義の武将といえますよね。

また今回取り上げた関ケ原の合戦に乗じた行動についても、そもそも徳川家康とは(事実上)同じ豊臣家の家臣でありましたし、主従ではなく建前上は同じ東軍であったから、敵対すらしていません。
そして官兵衛の野心家ぶりを示すもうひとつのエピソードである、息子の長政に対し「(家康が手をとって感謝を示した際に)なぜもう一方の空いた手で家康を刺さなかった」と叱責したという逸話もどうやら後世の創作のようです。

家臣に対してもやさしく振る舞い、当時は当たり前とされていた主君のために家臣が追腹を切ることを禁止するほど大切にしています。

忠義の士であり、人格者、それでいて少し運が足りない、それが黒田官兵衛のほんとうの姿なのかもしれません。
来年の大河ドラマが楽しみになってきましたね。

三木城兵糧攻め
(三木の干殺し)
兵庫県三木市上の丸町 1578年2月〜1580年1月
鳥取城兵糧攻め
(鳥取の渇え殺し)
鳥取県鳥取市東町 1581年6月〜10月
備中高松城水攻め 岡山県岡山市北区高松 1582年4月〜6月
山崎の戦い 京都府乙訓郡大山崎町一帯 1582年6月13日〜14日
四国征伐 四国
九州征伐 九州
石垣原の戦い 大分県別府市北石垣 1600年9月13日〜15日
   
サポーター募集
攻城団は無料で利用できますが、その運営にはたくさんのお金がかかります。5年後も10年後もその先も維持するために、このサイトを気に入ってくださった方はぜひご支援ください。何卒よろしくお願いいたします。 サポーター制度のご案内
この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

最新記事

東美濃の城たびを開催します!(美濃金山城・岩村城・苗木城)

  • お知らせ

来年の2月に美濃金山城、3月に岩村城と苗木城で城たびを開催します! 東美濃歴史街道協議会と攻城団によるタイアップ企画「東美濃の山城を制覇せよ!」の締めくくりとして多くの団員の参加をお待ちしています!

つづきを読む

明知城にチラシが置いてあります

  • チラシ設置報告

岩村城の城主・遠山景朝の子、遠山景重の居城である明知城にも攻城団のチラシを置いていただきました。大正村観光案内所と恵那市観光物産館「えなてらす」で入手可能です。

つづきを読む

マイページのヘッダーをカスタマイズできるようにしました

  • お知らせ

みなさんのマイページ(公開用プロフィールページ)のヘッダー部分について、背景色を指定したり、ヘッダー画像を設定できるようにしました。

つづきを読む

攻城団レポート(2024年11月)

  • 月次レポート

毎月恒例の月次レポートを公開します。師走の由来が「お坊さんが走り回る」というのはどうやら間違っているようですが、現代人にとって忙しい月であることはまちがいないので、みなさんも健康に気をつけて、良い一年の締めくくりにしてください!

つづきを読む

岩村城にチラシが置いてあります

  • チラシ設置報告

日本三大山城のひとつに数えられ、おつやの方が女城主をつとめたことでも知られる岩村城にも攻城団のチラシを置いていただきました。岩村歴史資料館と岩村まち並みふれあいの舘、さらに恵那市観光物産館「えなてらす」で入手可能です。

つづきを読む

記事の検索

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る