徳島城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
国指定史跡(平成18年1月26日指定)徳島城跡
徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石※)の領主となった蜂須賀家政(はちすかいえまさ)(1558~1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により伊予の小早川隆景(こばやかわたかかげ)や土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)、比叡山の僧侶が協力しました。
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることが出来ませんでした。
藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。
※元和元年(1615年)、初代藩主至鎮は、大坂の陣の功績により淡路一国を加増され、蜂須賀氏は阿波・淡路25万7千石の大名となりました。