北畠具教が織田信長と戦った「大河内城の戦い」の舞台となった大河内城の歴史を時系列でまとめています。
大河内城とは
大河内城は現在の三重県松阪市大河内町城山に所在した平山城で、伊勢国司・北畠氏歴代の居城として知られています。
標高約110mの丘陵上に設けられ、北方を矢津川、東方の丘裾を坂内川、西と南を深く切れ込んだ谷に守られるという天然の要害となっています。また、のちに和歌山街道と呼ばれ、現在の国道166号線にほぼ沿うとみられるルートなどを見下ろす交通の要衝でもありました。
城域は南北約320m・東西約360mの広さをもち、本丸は約30×60mの台状地にあったと考えられています。その西側には深い堀切を挟んで西の丸があり、同じく約30×35メートルの台状地となっています。
東側の一段低くなっている平坦地は二の丸とされ、馬場や御納戸などが設けられていました。
各曲輪からのびる北方の丘陵端には二重・三重に堀切が備えられ、大河内城の防御をより強力なものとしています。さらに周囲には蔵屋敷・火薬庫・櫓・出丸等を設け、戦う山城としての十分な機能を有していたことがうかがえます。
築城年代は定かではありませんが、1415年(応永22年)には南朝方の伊勢国司・北畠満雅が北朝の足利方との戦闘に備え、弟の北畠顕雅をここに入城させています。
1429年(正長元年)、「岩田川の戦い」で北畠満雅が討死したことにより以降の職務を顕雅が代行、顕雅の子孫は北畠氏庶流の大河内御所を称して有力拠点のひとつとなります。
1569年(永禄12年)、織田信長による南伊勢侵攻に際し、前伊勢国司として影響力を行使していた北畠具教が霧山城から大河内城に拠点を移して籠城戦を展開。9倍に近かったともされる差の兵力を相手に、一か月以上にわたって持ちこたえました。
『信長公記』によると、信長は北畠具教らが立てこもる大河内城の周囲を自ら調査し、東方の山に陣を据えて城下を焼き払って戦闘を開始したことが記されています。
また、西の搦手口から3隊に分かれて夜襲を試みたものの雨のせいで鉄砲隊が機能せず、20人以上が討死するという激戦の様子なども伝えられています。
しかし、やがて織田方に有利な条件をのむ形で和睦し、信長次男の織田信雄が養嗣子として北畠家へと入り込むことになります。
1575年(天正3年)、北畠具豊と名乗っていた信雄は北畠の家督を相続し、本拠を度会郡の田丸城へと移転。
このことにより、難攻不落の堅城として知られた大河内城は以降廃城となりました。
公家大名・北畠具教の本拠
大河内城代々の城主であった北畠家は、伊勢国司とあるように公家という立場でした。
戦国時代には少数ながら、武力をもった有力な公家が大名化して統治を行った例があり、これを公家大名などと称しています。
北畠家はそんな公家大名の代表例であり、先述の北畠具教は特に剣術を好んで研鑽を積んだことが知られています。
具教が師として教えを請うた武芸者の一人に、鹿島の太刀で知られる新当流の塚原卜伝がいました。
卜伝から剣術を授かった者としては室町十三代将軍・足利義輝もおり、その点で具教は義輝と兄弟弟子の間柄といえるでしょう。
また、新陰流の上泉伊勢守信綱にも師事しており、当代一流の剣術者との親交があったことがわかります。
これらのことからも推測されるとおり、北畠具教という人物は公家でありながら自ら剣を修める武芸者でもありました。
北畠家がその最後に経験した織田方との戦闘でも、具教が指揮官の役割を果たしたことが想定され、そうした武人としての戦略に基づいて大河内城を運用したと考えられます。
地の利からくる城としての機能、そして優れた指揮官の存在。これらが合わさった大河内城は、難攻不落の言葉通りの能力を発揮したのでした。
大河内城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1415年(応永22年) | 南朝方伊勢国司・北畠満雅の弟・北畠顕雅が、北朝足利方との戦闘に備え大河内城に入城 |
1429年(正長元年) | 北畠満雅が岩田川の戦いで討死 |
1569年(永禄12年) | 織田信長の南伊勢侵攻に対し、前伊勢国司・北畠具教が大河内城を本拠として籠城戦を展開。織田信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦・開城 |
1575年(天正3年) | 信雄が北畠の家督を継ぎ、南伊勢統治の拠点を田丸城に移転。大河内城は廃城に |