大河内城に設置されている案内板の内容を紹介します。
大河内城跡(おかわちじょうあと)
- 県指定史跡
- 昭和十二年十一月五日指定
- 指定面積
- 五一、〇五一・三三平方メートル
- 時代
- 室町時代
標高一一〇メートル余りの丘陵突端部一帯、三〇〇メートル四方の範囲内に築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷が巡って自然に要害の地を形成している。城の縄張りは本丸を中心に北を大手口、南を搦手口(からめてぐち)とし、西に西ノ丸、東に二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切や台状地が残る。
大河内城は応永年間、伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)により築城され、弟顕雅(あきまさ)が入城して、その子孫は代々「大河内御所(おかわちごしょ)」を称した。永禄一二年(一五六九)八月、本城をめぐって北畠具教(とものり)と織田信長が対峙し、北畠氏は五〇日にもおよぶ籠城戦に耐え、やがて和睦が成立している。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛されたが、天正三年(一五七五)には信長の次男北畠信雄により廃城となる。
二〇〇七年三月九日 松阪市教育委員会