朝倉氏は1573年(天正元年)に織田信長の軍勢によって攻め滅ぼされるまで、一乗谷の地に5代約100年余にわたって居を構えていました。
現在見ることのできる館跡は、最後の当主であった義景の時代のものです
この朝倉館跡は、遺跡の中心的存在で朝倉氏の当主が住み、政治や行事などさまざまなものごとをおこなった館の跡です。
その規模は、土塁や堀(濠)をふくめた敷地面積で10,628m2。土塁内部の平面は6,425m2で、当時の室町幕府最高の地位にあった「管領」の館にも匹敵するほど巨大なものです。
調査により、敷地内からは16の建物跡と5,000点を越える生活用品が発見されています。
なかでも、堀の中から発見された174枚の将棋の駒には現在は使われていない「酔象」という種類の駒が含まれており、将棋の発展の歴史の上で貴重な資料となっています。
朝倉義景館
この館は山城を背にして西を向き3方に堀と土塁を巡らし、門を開き、隅櫓(すみやぐら)を構えている。内部には10数棟の建物群がみられ、これらは大きく2つに分けられる。1つは主殿(しゅでん)を中心として南半に位置するもので、接客の機能を持ち、会所や数寄屋・庭園等もみられる。もう1つは常御殿(つねごてん)を中心にこの北側に位置するもので、主人の日常生活の場となり、台所や持仏堂・湯殿等もみられる。この他、厩(うまや)等も存在した。建物はすべて礎石の上に角柱を立て、舞良戸(まいらど)・明障子(あかりしょうじ)といった引戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。また屋根は柿(こけら)板等で葺いていたと考えられている。書院造の成立過程を知る上で欠くことの出来ない貴重な遺構である。