織田家臣時代の秀吉がはじめて城主(城番)を任された横山城の歴史を時系列でまとめています。
横山城とは
横山城とは現在の滋賀県長浜市と米原市の境、横山丘陵の頂上部一帯に築かれた山城です。
標高約312mの丘陵最高峰を中心とし、真北を地図の上とすると尾根伝いに逆Yの字状に展開する縄張りをもっています。
大きく北城と南城に分けられる別城一郭の構造で、北城は西尾根の先端部に二重の堀切を設けています。
南城は主郭周囲に土塁をめぐらせ、虎口・竪土塁・竪堀を設けるなど発展的な防御機構を有しているのが特徴です。
その他多くの曲輪群を有しており、これらは後述する織田氏の浅井攻めの際、秀吉が改修を加えた結果の姿を含むと考えられています。
横山城の正確な築城年代は不明ですが、本来は北近江を支配していた京極氏の支城のひとつでした。
しかし1517年(永正14年)には勢力を蓄えた浅井亮政によって攻略され、以降は浅井氏の勢力下で運用されていきます。
1529年(享禄2年)の書状からは当時の城将を浅井氏家臣・赤尾氏が務めていたことがうかがえ、やがて浅井氏南進の拠点として1561年(永禄4年)、浅井長政の手により本格的な改修を受けました。
1570年(元亀元年)、越前朝倉攻めを決行した織田方から離反した浅井氏は、信長の近江侵攻を迎え撃つことになります。
美濃・近江国境の防衛線を突破した織田軍は、浅井氏の本城である小谷城との分断を目的に横山城を包囲。木下藤吉郎秀吉・柴田勝家・池田輝政らの攻撃により横山城将の大野木土佐守は開城・逃亡し、信長は秀吉を横山城の城番として配置しました。
翌1571年(元亀2年)には浅井長政の箕浦城攻めに対応すべく、竹中重治(半兵衛)を横山城の守備として秀吉自らが100騎あまりを率いて出兵。同年8月には大風が吹き、塀や矢倉が損壊するという被害をこうむっています。
さらに翌1572年(元亀3年)1月、秀吉が不在の隙をついて浅井井寅・赤尾清冬らが横山城城門まで侵攻しましたが攻略は失敗。横山城の堅牢さを改めて認識することとなります。
1573年(元亀4年)、織田軍による小谷城への総攻撃によって浅井氏は滅亡。北近江の支配権は織田の掌中へと移行することになりました。
以降の横山城は一時衰退したともみられていますが、1582年(天正10年)に秀吉に降った前長浜城主・柴田勝豊を監視するため再び横山城を修築しています。
この時の城将には秀吉の黄母衣衆で徳島藩祖・蜂須賀家政が任命されていますが、廃城の時期は不明となっています。
浅井氏本城・小谷城攻略の重要な布石
横山城が所在する横山丘陵は、全山におよんで要塞として位置付けられていたことがうかがえます。
丘陵先端部にある前方後円墳・茶臼山古墳は、信長が姉川合戦の際に拠点とした龍ヶ鼻砦のことと考えられています。
戦国時代には古墳などが陣として利用されることがよくありましたが、この横山丘陵周辺も古墳の集中地帯であり、それぞれ砦として活用されたことが判明しています。
浅井氏の本城である小谷城は、横山城から直線距離で北西方向に10km弱という位置でした。
織田軍はこの横山城を手に入れたことにより、前線基地として活用しつつ小谷城への圧力を強めていきました。
じつに3年にもおよぶ対峙の末に陥落した小谷城でしたが、いかに横山城が戦略的に重要な防衛拠点であったかが理解されます。
横山城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1517年(永正14年) | 京極氏の支城であった横山城を浅井亮政が攻略、以降浅井氏が領有 |
1529年(享禄2年) | 浅井氏配下の横山城将・赤尾氏が連署書状を発行 |
1561年(永禄4年) | 横山城衆が濫妨に及んだ旨を浅井家重臣・赤尾清綱に通報 |
同年 | 浅井氏の南進拠点として、浅井長政により改修 |
1570年(元亀元年) | 姉川合戦で織田信長軍が横山城を攻略。木下藤吉郎秀吉が入城・改修 |
1571年(元亀2年) | 浅井長政の箕浦城攻めに対応すべく、竹中重虎を横山城守備として秀吉が出兵 |
1572年(元亀3年) | 秀吉不在の隙に浅井井寅・赤尾清冬らが横山城城門まで侵攻したが攻略失敗 |
1573年(元亀4年) | 小谷城の戦いで浅井氏が滅亡 |
1582年(天正10年) | 前長浜城主・柴田勝豊監視のため横山城を修築、蜂須賀家政を配置。廃城時期未詳 |