横山城址に設置されている案内板の内容を紹介します。
横山城略史
横山城は、長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵(一名臥竜山)の最高所(標高三一二m)を中心に三方の尾根にY字状に遺構が配置されている。その主な施設は、四十ヶ所以上の曲輪からなり、いたるところに土塁・堀切・堅堀などの防御施設が設けられており、その機能は堅固で典型的な戦闘用の山城であったといえよう。
この城は、当初京極(きょうごく)氏の支城として築かれたといわれ、その後六角(ろっかく)氏と浅井(あざい)氏との対立激化にともないそれぞれの前進基地として争奪が行われ、浅井氏の勢力が拡大したことにより浅井氏の南進基地として役割を果たした。
この城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(一五七〇年)の姉川合戦(別名野村合戦)とそれ以後の織田氏・浅井氏の攻防においてである。
ここ江北の地(湖北地方)は、古くから北国や東国から京都に通じる交通の要衝の地にあたり、全国平定を目指す信長にとっては、そのおさえとして姻戚関係を結んでいた浅井氏の離反は大きな脅威であった。また、前方に延暦寺・石山本願寺、背後に武田勢、南に長嶋の一向一揆さらに北には浅井氏と手を結んでいた朝倉勢と、信長・秀吉主従にとってこの時期は多難な状況にあった。
姉川合戦により浅井氏から奪った横山城を預かった秀吉は、その後何度かの浅井氏の攻撃にもかかわらず、浅井氏滅亡の天正元年(一五七三年)までの約三年間守り通し、浅井・朝倉勢を牽制することにより信長の背後を守った。信長自身も本願寺攻め・小谷攻めに際して何度も本拠地として利用するなど重要な役割を果たしている。
また、この城は秀吉にとってその後の江北を領有する直接の足がかりとして、さらに全国平定の基礎を築いた城としても長浜城に劣らぬ重要な歴史的価値をもっている。長浜市
城の縄張り図も用意されています。