沼田城の天守は、1596年(慶長元年)または1597年(慶長2年)に真田信幸によって建造されました。
その後、1658年(万治元年)頃にも信幸の孫である真田信利が「五層の天守を建てた」とあります(この間に倒壊された記録はなさそうなので改修か)。
1689年(元禄2年)に破却されたため、現在この天守は残っていませんが、沼田公園にある案内板の内容を紹介します。
上野国沼田城絵図(部分)
この絵図は、江戸幕府3代将軍家光(いえみつ)が正保(しょうほう)年間(1644~1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政(のぶまさ)の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非情に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1.76m☓2.34mもあります。
絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和(てんな)元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。沼田城天守(てんしゅ)
沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)(のぶゆき)が慶長年間(1596~1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間☓10間(推定18m四方)の5重であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5重の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。
この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。
沼田城の別称(倉内城・鞍打城・霞城)
柿崎デザインスタジオが制作された沼田城天守想像図です。