沼田城
沼田城

[群馬県][上野] 群馬県沼田市倉内


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.16(101位)
  • 見学時間:55分(88位)
  • 攻城人数:1574(102位)

沼田城の歴史

沼田城は「お家騒動」と因縁深い城です。
もともとは沼田氏の城でしたが、上杉氏が沼田氏のお家騒動に乗じて城を奪い、さらに北条氏が上杉氏のお家騒動(御館の乱)に乗じて城を奪っています。

沼田城址[沼田城]
提供:沼田市 | 沼田城址[沼田城]

その後は真田昌幸の調略により武田氏が北条氏から城を奪い、織田氏このことが昌幸が沼田に固執する理由になり、いわゆる「沼田領土問題(沼田割譲問題、沼田領帰属問題)」に発展していくわけです。

小田原征伐後にふたたび真田氏の城となりますが、江戸時代に入り今度は真田氏にもお家騒動が起こります。
真田信之(信幸)の孫の代で後継者争いが起こり、その結果として(ケンカ別れするかたちで)沼田藩が立藩されることになりますが、沼田藩主となった真田信利は、従弟の真田幸道が継いだ松代藩に対抗するために幕府への検知報告でウソをついたり(松代藩より多めに報告した)、かなりひどい領主だったようで改易されました。

いったんは廃藩となり、天領として扱われましたが、1703年(元禄16年)以降は本多氏、黒田氏、土岐氏が城主をつとめました。

鐘楼と桜[沼田城]
提供:沼田市 | 鐘楼と桜[沼田城]

沼田城の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
1529年(享禄2年)沼田顕泰、築城に着手
1532年(天文元年)沼田城完成。以後、沼田氏の拠点となる
1558年(永禄元年)沼田氏にお家騒動。家中が上杉憲政派と北条氏派に分裂する。顕泰は上杉憲政派(反北条方)であったが敗れて越後に逃亡、城には北条康元が入り沼田康元を名乗り城主となる
1560年(永禄3年)長尾景虎(上杉謙信)が越山し上野へ侵攻して沼田康元を追う。沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)を率いる立場として復権したが、城は景虎の直属となる(上杉家の「沼田三人衆」と呼ばれる上野家成、河田重親、松本景繁による城代支配)
1569年(永禄12年)『加沢記』ではこの年に顕泰の家督相続をめぐりまたお家騒動が起こり、その隙をついて上杉氏が沼田城を支配し、本庄秀綱による城代支配となる(ただし後世史料のため年代などが疑問視される)
1578年(天正6年)謙信の死後に起こった「御館の乱」により沼田城を北条氏が制圧。城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置く。同年、甲越同盟の成立で上杉景勝が武田氏の沼田攻略を承認し、真田昌幸が攻略の命を受ける
1580年(天正8年)昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入って無血開城させ、武田氏が沼田領を支配化におく。同年、顕泰の子・沼田景義が北条氏と由良氏の支援を得て沼田城奪還を目指し挙兵するが、昌幸の謀略により、泰清に殺害される。これによって沼田氏は滅亡
1582年(天正10年)3月、武田氏が滅亡。その功により、織田家臣・滝川一益が武田遺領のうち上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。沼田城は一益の家臣、滝川益重が城代となる。同年6月の「本能寺の変」を経て、武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。沼田城は北条氏に降った真田昌幸の支配となる。その後、徳川氏と北条氏が和睦することで沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏に臣従する
1589年(天正17年)豊臣秀吉の裁定により沼田城を含む沼田領の3分の2が北条氏の支配となる。猪俣邦憲が再び城代になるが、同年に邦憲が真田氏が領有する名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる
1590年(天正18年)北条氏が滅亡。小田原征伐の戦後処理において、沼田城2万7千石は昌幸の長男、真田信幸に与えられる
1597年(慶長2年)信幸が城郭整備をし、5重5階(4重5階あるいは5重6階の可能性もあり)の天守を建造する
1600年(慶長5年)「関ケ原の戦い」にて、東軍についた信幸(信之に改名)が上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩するが、信之は引き続き沼田城を本拠とする
1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる
1622年(元和8年)信之が松代藩13万石へ加増移封となる。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領として継続される
1638年(寛永15年)信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承
1656年(明暦2年)信之が隠居し、信政が松代藩藩主となる。沼田領は、信吉の子・信利が継承
1658年(万治元年)信政が死去し、その相続を巡って松代の真田本家と真田信利との間でお家騒動が起こる。これを期に沼田領は沼田藩として独立し、信利が初代藩主となる
1658年(万治元年)松代藩への対抗意識から再検地を行い、元来は表高3万石だったところを松代藩より多い14万4千石(実質は6万石余)として届ける。のち、同じく対抗意識から沼田城に五層の天守を建て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装する
1681年(天和元年)信利の暴政と、10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され、沼田藩は廃藩にされる。以降、1703年(元禄16年)まで天領となる
1682年(天和2年)沼田城は廃城となり、1689年(元禄2年)には沼田城も天守をはじめ徹底的に破却された。破却される
1703年(元禄16年)本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興される。以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされないまま、明治の廃藩置県に至る
1916年(大正5年)旧沼田藩士の家に生まれた政治家で実業家の久米民之助が城地を購入し、公園として整備。1926年(大正15年)に沼田町へ寄贈され、現在は沼田公園となっている
1973年(昭和48年)1970年(昭和45年)に国の重要文化財に指定された旧生方家住宅が沼田公園に移築される
1983年(昭和58年)1634年(寛永11年)に真田信吉が鋳造させた「城鐘」を利用した「鐘楼」を復元(それ以前は鐘は旧沼田町役場にあった)
1990年(平成2年)元藩主である土岐家の住居として東京に建てられていた旧土岐邸洋館(国の登録有形文化財)を沼田公園へ移築
   

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今日のレビュー

戦国の終わりを告げた城―八王子城を探る (ロッコウブックス)

おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。

赤ヱ門さん)

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