豊臣大坂城
豊臣大坂城

[大阪府][摂津] 大阪府大阪市中央区大手前


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.87(--位)
  • 見学時間:27分(--位)
  • 攻城人数:884(187位)

心眼寺

心眼寺はかつて真田丸(真田幸村出丸城)があったとされる場所に建てられた寺です。

近年の研究では真田丸の正確な中心位置は、心眼寺から少し離れた場所と推定されています。

1622年(元和8年)4月、真田幸村とその子・大助の供養のために、真田家の祖先である滋野氏の一族ともいわれる白牟(はくむ)和尚によって創建されました。
寺の定紋は真田家の六文銭、山号は「真田山」とあるように、真田家にゆかりのある寺です。

当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、幸村の墓をつくることは許されませんでしたが、「大坂冬の陣」から400年目(=信繁四百回忌)にあたる2014年(平成26年)に墓碑が建立されました。

大阪市顕彰史跡第204号
真田丸出城跡(天王寺区餌差町)
慶長19(1614)年、大坂冬の陣に際し、豊臣方の真田信繁(幸村)が総構の空堀南側に築いた曲輪で、三日月形をした形から偃月城(えんげつじょう)とも呼ばれた。冬の陣後の講和条件によって破却された。大阪市教育委員会

豊臣秀吉が上町台地の北端部に築城した大坂城は難攻不落の天下の名城として知られるが、南方の天王寺方面からの防備が不十分であった。慶長19(1614)年の大坂冬の陣にあたり、豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、この弱点に気付き、現在の空堀商店街からJR玉造駅方向に造られていた惣構の空堀の外側にあった「笹山」という小丘陵に出城を構え、徳川勢の攻撃に備えた。

 出城は東西200mほどの規模で、三日月形をした外形の内部が東西2つの曲輪からなり、惣構の堀を土橋でまたいで大坂城内と結ぱれていたという。真田信繁は、わずか3千人余りの将兵でこの出城を守り、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの攻撃を見事に撃退し、豊臣方にとって冬の陣最大の戦果をあげた。

ちなみに心眼寺は坂本龍馬を殺害した候補者で有力視されている、京都見廻組の桂早之助・渡辺吉太郎の墓所でもあります。

心眼寺の観光情報

住所大阪府大阪市天王寺区餌差町2-22
宗派浄土宗
山号真田山
創建年1622年(元和8年)
見学時間 8:00~17:00
   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

豊臣大坂城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

猛将妄想録 1 (電撃ジャパンコミックス)

いまでも定期的に読み返す一冊。たまたま見かけたこの本のおかげで攻城団にマンガという武器が加わったと思うと感慨深いです。攻城団で発表した作品を収録した続刊も出版したいと思ってます。

こうの)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る