福井城の天守台は切込接ぎの石垣で築かれた美しい天守台です。
福井城は天下普請によって築かれた城のひとつで、本丸には望楼型4重5階の天守が建てられていました。天守の高さは28m、天守台を含めると37mの規模を誇っていました。
この天守は白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような配置に破風が並べられていたとされます。
福井城天守
福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長六年(一六○一)から約六年をかけて福井城(北庄城)を築城し、本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。
残されている天守絵図によれば、外観は四層であるが、最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている。絵図では高さが、約二八メートルあり、天守台を含めると約三七メートルにもなる。
今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。
四層五階の壮大な天守も、寛文九年(一六六九)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。
1669年(寛文9年)に焼失したため、現在は天守台のみが遺構として残っています。
(じっさいには天守が焼失した際に類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建して天守の代用としました)
天守台の向かいにある小天守台(控え天守台)の一部は1948年(昭和23年)に起きた福井地震で一部が崩壊しています。
この控天守台跡(ひかえてんしゅだいあと)の石垣には福井震災(一九四八年六月)等による崩壊の跡が残っています。厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠(ゆうえん)なる時の流れに思いを馳せることができます。