備中松山城の沿革について書かれた案内板がありましたので内容を紹介します。
備中松山城の沿革
備中松山城は、延応二年(一二四〇)に有漢郷(うかんのごう)(現上房郡有漢町)の地頭秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)が臥牛山の大松山に砦を築いたことに始まる。元弘年中(一三三一~三四)には、秋庭氏にかわり備後の三好氏の一族である高橋九郎左衛門宗康(たかはしくろうざえもんむねやす)が大松山に入城。この頃には縄張りは小松山まで拡張し、弟の大五郎を居城させている。その後も、城の縄張りは変遷を遂げ、城主は高氏・上野氏・庄氏・尼子氏(あまごし)と替わり、永禄四年(一五六一)には安芸(あき)の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親(みむらいえちか)が尼子氏の加番吉田左京亮(よしださきょうのすけ)を討ち、備中松山城主となっている。
元亀三年(一五七二)、将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜田氏の和睦が成立すると、三村元親は東方の織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。天正二年(一五七四)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜田連合軍と三村勢との間で備中松山城をはじめとする備中諸城をめぐって激戦が展開される。いわゆる「備中兵乱」で三村氏は滅ぶが、この頃には備中松山城の本城は小松山へ移り、臥牛山一帯は大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木(あしび)丸などの出城・出丸が設けられ、全山が一大要塞となっていたことが記録などからうかがえる。また居館である御根小屋も現在の場所(臥牛山南西麓 現高梁高等学校用地)に設けられていたようであるが、本城とともにその縄張りや建物などについて詳細は明らかではない。
関ヶ原の合戦後、全国の実権をほぼ掌握した徳川家康は、毛利領の中で最も東にある備中松山城に国奉行として小堀正次・政一(遠州)父子を赴かせた。小堀氏は頼久寺において政務を執っていたが、政一は、慶長一〇年(一六〇六)に御根小屋と備中松山城の修築を行っている。その後、政一は所替えとなり、因幡国鳥取から池田長幸が入城。その子長常(ながつね)に嗣子がなく廃絶、常陸下館(ひたちしもだて)から成羽を経て、寛永十九年(一六四二)、水谷勝隆(みずのやかつたか)が入城する。
水谷氏は、勝隆(かつたか)、勝宗(かつむね)、勝美(かつよし)の三代が備中松山藩を治めている。初代の勝隆により玉島新田の開拓や高瀬舟による高梁川水路の開発など、主に経済基盤が整備され、県下三大祭りとして有名な「備中松山踊り」もこの頃に始まっている。さらに二代の勝宗は、天和元年(一六八一)から三年にかけて備中松山城の大改修を行い、現存する天守や二重櫓、その他の櫓、大手門、二の丸櫓門、搦手門など全容が完成している。しかし、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがなかったため水谷氏は改易(かいえき)となっている。元禄六年(一六九三)水谷氏断絶後、播州赤穂藩浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が城の受け取りにあたり、城代家老大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)は一年近く在番として備中松山城にとどまっている。その後安藤重博(あんどうしげひろ)・同信友(のぶとも)次いで正徳元年(一七一一)に石川総慶(いしかわふさよし)が城主となり、延享元年(一七四四)に石川氏に代わって伊勢国亀山(現三重県亀山市)から板倉勝澄(いたくらかつずみ)が入城する。板倉氏はその後、勝武(かつたけ)・勝従(かつより)・勝政(かつまさ)・勝晙(かつあき)・勝職(かつつね)・勝静(かつきよ)・勝弼(かつすけ)と七代続き廃藩置県を迎える。