備中松山城の天守は江戸時代から残る現存天守のひとつです。
(手前に見えるのは復元された「五の平櫓」です)
備中松山城は三村氏と毛利氏によって争われましたが(備中兵乱)、その結果、小早川隆景により攻め落とされ、毛利氏の領有となりました。この毛利氏の時代から天守は存在していたといわれています。
現在見られる天守は、江戸中期に備中松山藩の藩主であった水谷勝宗(みずのやかつむね)が築いたとされますが、この天守は「関ケ原の戦い」後の1600年(慶長5年)に城番として置かれた小堀政次、政一が建てたものを改修したともいわれています。
天守前には少しスペースがあります。
左に見えているのが復元された東御門です。
下から見上げた天守です。
2重2階で、西面に半地下のようにして付櫓が附属する複合式望楼型天守となっています。
現在は向かって左側(西面)の付櫓にある入口から出入りすることができますが、当時はこのさらに横に「八の平櫓」がつけられており、そこを入口としてさらに渡櫓を経て天守へ入るような構造だったそうです。
入口から入った様子です。奥にある梯子をのぼって天守内部に入ります。
中には三村氏や小堀遠州(小堀政一)、水谷氏、大石内蔵助など、備中松山城にかかわった人物を紹介したパネルがあります。
1階には全国の城でも珍しい囲炉裏(囲炉裡)が掘られています。
囲炉裡(いろり)
板石造り、長さ一間、幅三尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと言われている。
天守閣の中に切りこみの囲炉裡があるのは全国でも珍しい。これは戦国時代、備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたものである。
ただこの囲炉裏はじっさいにはほとんど使われることはなかったそうです。
また、一段高い場所にある「装束の間」は籠城して、最後には城主が切腹するための場所です。
装束の間(しょうぞくのま)
籠城時の城主一家の居室。床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている。
戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある。
階段はそれほど急ではありませんでした。
2階には、愛宕権現や成田明神など9柱の神を祀った「御社壇」と呼ばれる舞良戸(まいらこ)で仕切られた部屋があります。
御社壇(ごしゃだん)
天和三年(一六八三)当時の城主水谷左京亮勝宗(みずのやさきょうのすけかつむね)が、この松山城を修築したその節、松山藩五万石の守護として三振(さんふり)の宝剣に天照皇大神(てんしょうこうたいじん)を始め水谷氏の守護神羽黒大権現(はぐろだいごんげん)等、十の神々を勧請(かんじょう)し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行ない、安康を祈った。
2階から入口を見たところです。
窓からのぞいてみました。
入口から出た景色はこんな感じです。
左側が「五の平櫓」、右側が「六の平櫓」です(いずれも復元)。
なお「六の平櫓」は資料室になっていて、復元整備の様子を紹介した展示やビデオ上映コーナーがあります。
昭和に入ってからも備中松山城は3度にわたって修理されています。
最初は戦前の1940年(昭和15年)に解体修理が行われました。つづいて1960年(昭和35年)には部分解体修理が行われています(部分的にはほかにも修理履歴があります)。
3度目は2001年(平成13年)1月から、2003年(平成15年)3月に行われました。総事業は2億1500万円だそうです。
備中松山城の天守は高さが約11mと現存12天守のなかではもっとも小規模ですが、もっとも高所にある天守でもあります。
(日本三大山城にも選ばれています)
日本100名城にも選ばれていますし、ぜひ訪問してください。