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団員のみなさんの個人ブログに最近投稿された攻城日記です。
143 美濃金山城@岐阜県可児市兼山 令和三年(2021)4月21日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら【歴史】天文6年(1537)美濃の守護代一族である斎藤妙春(正義)が築城した烏峯城がルーツとされる。妙春が天文17年(1548)謀殺されると、長井道利が城主となったが、やがて道三の娘婿である尾張の織田信長が美濃を支配したのに伴い、信長家臣の森氏が城主となった。慶長5年(1600)に城は石川氏の預かりとなり、翌年に建物は解体され犬山城の改修に使われた。天守も移築されたとの説もあるが、今日では否定されている。【縄張】標高約276mの古城山の山頂に築かれた山城である。天守台を山頂の本丸北東隅に配し、本丸を中心に左翼と右翼に広がるような形で、二の丸や三の丸が配置されていた。また、天守台の北東にも東曲輪が設けられていた。本丸は総石垣、その他の曲輪でも部分的ながら石垣が用いられていた。、、、続日本1...143美濃金山城@岐阜県可児市兼山令和三年(2021)4月21日
149 小牧山城@愛知県小牧市堀之内 令和三年(2021)4月21日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら【歴史】永禄6年(1563)織田信長は小牧山城を築き、主要兵力を移して美濃への侵攻を繰り返した。永禄10年(1567)美濃稲葉山城を陥落させると、これを岐阜城と改名して入城し小牧山城は廃城となる。17年後の天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康の直接対決である小牧・長久手の戦いでは、家康が小牧山城に本陣を敷き城を改修して、秀吉と互角以上に渡り合った。江戸時代には小牧山は尾張徳川家の領地となり、一般人の入山は禁止された。【縄張】濃尾平野の北東部に位置する標高約86mの小牧山に築かれた。東西約600m、南北約400mの山全体を城域とし、多くの曲輪から形成されていた。小牧山城は従来、美濃攻めの一時的城と考えられていたが、近年の調査により、主郭の四方を石垣で囲んだ本格的造りの城であったことが判...149小牧山城@愛知県小牧市堀之内令和三年(2021)4月21日
国指定史跡 七尾城@石川県七尾市 令和三年(2021)2月27日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちらいしかわ城郭カード→こちら前回のエントリーは→こちら自宅から小一時間で本丸に立てる七尾城。本日快晴なれど北の風冷たし。しかし残雪がなくて山歩きには絶好の日よりでした。雄大で壮大な石垣も素晴らしいけど、虎口や枡形、土塁、大堀切も見どころです。途中「ニホンカモシカ」が通せんぼしていて5分ほどにらめっこしました(笑)今回は土と堀の魅力を、、、。でもこれは外せません(笑)残雪の本丸、三段壁本丸三段壁と七尾湾本丸上段の石垣と七尾湾本丸虎口90度にクランク本丸枡形大手道からの防衛大手道虎口石垣こちらも90度にクランク安寧寺跡畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦の慰霊碑三の丸石塁でしょうか大堀切二ノ丸と三ノ丸を分断する防御施設三ノ丸から二ノ丸に向かう路でニホンカモシカが通せんぼしばし睨み合いとなりました(;^ω...国指定史跡七尾城@石川県七尾市令和三年(2021)2月27日
135 第二回 増山城址@富山県砺波市 令和三年(2021)3月11日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら前回のエントリーは→こちら【歴史】築城年代は不明だが、文献によると南北時代には前身とされる和田城が存在していた。当時の越中守護は桃井氏、斯波氏を経て畠山氏の世襲となり、その家臣の神保氏が守護代として戦国時代には実質的支配者となった。神保氏は、上杉謙信の越中侵攻を増山上に籠城して一度は撃退するも、再侵攻により落城。その後、織田信長の越中侵攻で佐々成征の手に落ち、豊臣政権下では前田氏の所領となるが、慶長年間(1596~1615)に廃城となった。山城は冬場の下草が枯れた時に歩くのが最適。とは言え、今年の冬は記録的な豪雪で、北陸の冬山に立ち入るなんて想像もできませんでした(;^ω^)しかし2月になってようやく春の兆しが訪れ雪も解けてきたので、クマが冬眠から覚める前のつかの...135第二回増山城址@富山県砺波市令和三年(2021)3月11日
鴨城@富山県高岡市福岡町 令和三年(2021)3月12日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら富山県には300以上の山城があったと言われ、富山県西部の小矢部から氷見にかけての連続する低い山並み「西山」にも多くの山城が存在したそうです。今回はそのうちの福岡地区周辺にまとまっている「赤丸城」「鴨城」「二ッ城」の三城を訪ねてみたいと思います。三城の配置図次は「鴨城」鴨城は「カモ山」(標高154.6m)から「モトトリ山」(195.8m)の山頂に築かれています。城の中心となる場所は「大松平」と呼ばれており、主郭を含む広い平坦面は、切岸を設けて防御を固めています。また、東方には「にらみ山」と呼ばれる出丸に相当する施設があり、西方には物見台と考えられる元取山山頂まで尾根続きとなっており、途中堀切を何ヶ所か設けています。南北朝の「二宮円阿軍忠状」によると、桃井直常討伐に従...鴨城@富山県高岡市福岡町令和三年(2021)3月12日
赤丸城@富山県高岡市福岡町 令和三年(2021)3月9日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら富山県には300以上の山城があったと言われ、富山県西部の小矢部から氷見にかけての連続する低い山並み「西山」にも多くの山城が存在したそうです。今回はそのうちの福岡地区周辺にまとまっている「赤丸城」「鴨城」「二ッ城」の三城を訪ねてみたいと思います。三城の配置図先ずは「赤丸城」赤丸城跡は、城ヶ平山(標高173.6m)の山上一帯に築かれている山城であり、城主は五位庄域に勢力を誇った国人領主中山氏と考えられている。中山氏は、佐々成政が越中を平定する過程でその配下に入ったとみられる。天正12年(1584)の成政による前田方の能登末森城攻めにも参加したものの、翌年成政が秀吉に降伏すると、中山氏もこの地を離れ、越前の敦賀へ移り住んだとされている。山頂にある主郭(本丸)は広い平坦面...赤丸城@富山県高岡市福岡町令和三年(2021)3月9日
切山城@石川県金沢市宮野町 令和三年(2021)4月3日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちらいしかわ城郭カード→こちら2021年2月に訪ねた「松根城」と共に、国史跡・『加越国境城跡群及び道』に指定されている【切山城】松根城の記事は→こちら加賀国と越中国を結ぶ国境沿いの街道にはいくつもの山城、加越国境城跡群が築造されていた。その歴史的背景は、織田信長亡き後の天下統一に向け、天正12年(1584)羽柴秀吉と対立した織田信雄・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で争ったことによる。前年の賤ケ岳の合戦の後、秀吉に降伏することで越中に留まった佐々成政は、これを機に反秀吉へと方向転換し、秀吉方の前田家と敵対した。成政は8月に朝日山城を攻撃した後、9月には末森城を攻めるが、いずれも失敗する。天正13年になると、両者が国境付近への侵入を繰り返す中、しだいに前田勢が優勢になり、秀吉遠征軍の登場によ...切山城@石川県金沢市宮野町令和三年(2021)4月3日
140 玄蕃尾城@福井県敦賀市利根、及び滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬 令和三年(2021)4月10日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら【玄蕃尾城】《歴史》天正10年(1582)柴田勝家により築城された。翌11年3月、勝家は豊臣秀吉と対決すべく玄蕃尾城に本陣を置き、周辺一帯に行市山砦などの陣城を築かせた。4月に秀吉の軍勢が大垣に出陣した隙を突いて、勝家も軍を率いて攻撃にかかった。だが、秀吉軍の反撃にあい、勝家軍は総崩れにとなって北庄城へ敗走した。(賤ケ岳の戦い)戦後は再利用されなかったため、勝家本陣時代の陣城としての遺構が残る。《縄張り》内中尾山の山頂に位置し、北國街道を見下ろす軍事上の要所であった。南北に主要な曲輪を四つ並べて、それぞれを土橋で連結していた。主郭の前方・後方に馬出を合計二つ配置する縄張りであった。馬出は兵站基地や出撃の拠点としての役割を持つコンパクトな曲輪であった。、、、続日本100名城日本城郭協会学研...140玄蕃尾城@福井県敦賀市利根、及び滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬令和三年(2021)4月10日
156 鎌刃城@滋賀県米原市番場 令和三年(2021)4月10日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちら【鎌刃城】《歴史》築城時期は不明だが、山麓の蓮華寺の寺伝によると、鎌倉時代の公安7年81284)鎌刃城城主土肥元頼の記述があるのが「鎌刃城」に関する最古の記録である。その後、応仁・文明の乱(1467~77)の頃には坂田郡の国人堀氏の本拠となっていたとされる。堀氏は戦国時代には浅井氏に臣従し、織田氏が近江に侵攻すると浅井氏を裏切って織田氏に降伏する。その後堀氏は天正2年(1574)に追放され、城は織田氏の直轄領となり、その後まもなく廃城になったと思われる。《縄張り》江北と江南の境目に位置し、中山道の間道を見下ろす軍事上の要所にあった。標高約384mの山頂に主郭を構え、2重3階と推測される大櫓を築いていた。主郭の南側に福郭を配置し、福郭から西方にのびた尾根筋に階段状に曲輪を展開しており、主郭...156鎌刃城@滋賀県米原市番場令和三年(2021)4月10日
越中荒山城@富山県氷見市小滝及び、石川県中能登町 令和三年(2021)4月12日 - あみの3ブログ
お城検索は→こちらいしかわ城郭カード→こちら荒山合戦古戦場【枡形山】荒山合戦記によると、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が自刃したのを機に、石動山衆徒は越後の上杉景勝に支援を求め、畠山(能登国守護)の遺臣である温井備中守景勝と三宅備後守長盛の両氏と共に、6月23日、枡形山に築かれていた荒山砦に籠りました。これに対して羽柴秀吉は前田利家に石動山攻撃を命じ、利家は三千人の兵を率いて石動山へ向かい、6月25日未明に石動山と枡形山の中間にあたる柴峠に布陣しました。そして、荒山砦の普請に向かう温井・三宅軍を急襲し、これを破った勢いに乗じて砦に攻め入り、ついに荒山砦は陥落したのです(荒山合戦)この合戦に勝利した利家軍は、翌26日に一気に石動山院に攻め入って、一山に火を放ち、栄華を誇った石動山の堂塔...越中荒山城@富山県氷見市小滝及び、石川県中能登町令和三年(2021)4月12日
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