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あみの3さんの攻城記録一覧(履歴)

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団員のみなさんの個人ブログに最近投稿された攻城日記です。

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 水口城

水口岡山城@滋賀県甲賀市水口町 令和三年(2021)7月17日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら水口岡山城跡は、天正13年(1585)に、豊臣秀吉の家臣、中村一氏が大岡山(古城山標高282m)に築いた山城である。城は、豊臣政権の地域支配の拠点として、東海道を見下ろす要衝の地に築城され、「水口城」と呼ばれていた。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後、当時の城主、長束正家が西軍に同調したため廃城となり、その後は、徳川政権による直轄支配がはじまった。寛永11年(1634)、将軍家の宿館として新たに築かれた水口城には、この城の石垣の石材が転用されたとしている。麓から100m高い山頂には、江戸時代の絵図に「天守」と記された広い平坦地である曲輪や櫓台、堀切が連続して配置され、山腹には、竪堀や帯曲輪、虎口などの遺構が今も地形によく残っている。北側斜面の一部に残る石垣は、安土城跡と並ぶ貴重な高石垣...水口岡山城@滋賀県甲賀市水口町令和三年(2021)7月17日

 三雲城

三雲城@滋賀県湖南市吉永 令和三年(2021)7月17日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら三雲城(吉永城)は、長享元年(1487)佐々木六角髙頼の命を受けて築城されました。代々の城主三雲氏はもと関東御家人で武蔵七党の児玉氏を名乗っていましたが、明応年間に(1492)にこの地に定住し、三雲氏を名乗り士豪として活躍した戦国武将でした。三雲氏が歴史の表舞台に登場するのは、三雲成持(1540~1603)が城主の頃です。成持(しげもち)の兄賢持(かたもち)は永禄9年(1566)に浅井長政との戦いで討ち死にし、父定持(さだもち)も元亀元年(1570)の野洲川の戦いで討ち死にするなど、近江守護六角氏の被官として活躍した一門として知られています。城は幾度か六角氏の亡命に用いられ、天文6年(1537)には、六角義賢が、永禄11年(1568)には義賢・義治が逃げてきています。三雲氏は織田信長が近...三雲城@滋賀県湖南市吉永令和三年(2021)7月17日

 城生城

城生城@富山市八尾町城生 令和三年(2021)6月21日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら神通川左岸に面する丘陵上に築かれた平山城で、標高は約120m、神通川との比高差は約55mです。北・東・西側の三方が急峻な崖で、神通川に面しているため難攻不落の城です。また、飛騨との国境に近く、軍事上・交通上の要衝でした。楡原保に勢力を有した斎藤常喜が、文和年間(1352~1356)頃に築城したと考えられます。天正11年(1583)の戦いで斎藤次郎右衛門は、豊臣方の佐々成政に攻められ落城しました。その後、佐々与左衛門や前田氏配下の青山佐渡守・笹島織部らが城主となり、慶長年間(1596~1615)には廃城になりました。本城は、丘陵上に曲輪を連ねる形で築かれています。最高所に造られた主郭(本丸)の規模は東西7m・南北34m程で、その西・南側には幅20m・全長約100mの...城生城@富山市八尾町城生令和三年(2021)6月21日

 井田主馬ヶ城

井田主馬ヶ城@富山市八尾町井田 令和三年(2021)6月21日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら標高約175mの山頂に築かれた山城です。江戸時代の歴史書「越登賀三州志」には、城主として斎藤主馬、あるいは主馬判官、斎藤左源太などの名があげられています。斎藤氏は、南北朝時代から楡原保に勢力を有し、戦国時代中期には、井田館から城生城に本拠地を移しました。この城は、天文21年(1552)までには築城され、天正11年(1583)斎藤次郎右衛門と豊臣方の佐々成政が戦った城生城攻防戦以前に廃城を迎えたと考えられます。本城は峯の南北に築かれており、中心的な曲輪は北側の峰にあります。ここには主郭(本丸)とこれを同心円状に一段低く取り巻く腰曲輪があります。西側は自然の急斜面、また北側から東側にかけては、人工的な二段の急斜面(切岸)と空堀によって守られています。、、、現地案内板よ...井田主馬ヶ城@富山市八尾町井田令和三年(2021)6月21日

 古国府城

古国府城@富山県高岡市伏木古府 令和三年(2021)6月5日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら戦国時代の一向一揆の拠点となった浄土真宗の寺・勝興寺を中心に、寺と城と戦国武将の駆け引きを小矢部市から高岡市伏木、そして南砺市井波まで追っかけてみました。現在の勝興寺境内が古国府城跡と伝えられている。故慮考によれば天正の初めより守山城主神保氏帳が居城していたと伝えている。氏帳は天正初期には既に守山城に居城していたので,古国府城は守山城の東麓を守る支城として使用されていたのだろう。天正12年11月氏帳が当地を勝興寺に寄進したことにより、以降同寺の境内として現代にいたっている。豊臣秀吉の佐々征伐を目前にして、一向一揆の領袖の勝興寺を厚遇することによって、一向一揆の協力を得る事が目的だったことは言うまでもない。、、、越中中世城郭図面集Ⅲより引用また勝興寺の概要(宗教法人...古国府城@富山県高岡市伏木古府令和三年(2021)6月5日

 井波城

井波城@富山県南砺市井波町井波 令和三年(2021)6月5日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら周囲を土塁が囲み、北東側に深い谷が残る戦国末期の典型的な平山城である。一向一揆の拠点になった瑞泉寺は寺の周囲に土塁や外堀を築いて防御した。しかし天正9年(1581)に(織田信長の命で)佐々成政に攻められて町家と共に兵火にかかった。その後成政の家臣前野小兵衛が入って城として整備された。阿弥陀堂跡が本丸となり、祖師堂跡が二の丸、太鼓堂跡が三の丸になったと記録にある。まもなく天正13年には前田利家に攻められて落城した。城の規模は、東西250m南北230mで城としての遺構がいまよく残っている。現在は本丸跡に井波八幡宮の社殿、その東側に庭園のある臼浪水、そして二の丸跡には招魂社の社殿がある。構造の特色、南半分は直線的に折れ曲がる土塁と堀を巡らす。これは横矢をかけるための備え...井波城@富山県南砺市井波町井波令和三年(2021)6月5日

 八幡山城

八幡山城@滋賀県近江八幡市宮内町他 令和三年(2021)5月29日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら【歴史と環境】八幡山城は、滋賀県近江八幡市の八幡山(鶴翼山)に築かれ、築城当時は内海に囲まれていました。天正13年(1585)には、羽柴秀次に近江43万石が与えられ八幡山城が築かれました。城郭施設は標高283mの山頂に位置し、居館群は標高130mの山腹の谷地形に平坦地を設けて造られています。大手道は居館群最高所に位置する秀次館から麓に下り、八幡掘りに至ります。この大手道両側には雛壇状に家臣団の居館群が広がっていて、東側の尾根と西側の尾根、さらに八幡掘がセットで惣構を構成していると考えられています。天正18年(1590)に秀次が尾張清洲に移封した後は、京極高次が代わって28000石で城主となり、秀次が自害する文禄4年(1595)に聚楽第と同じく破却されました。いわゆる織豊系城郭の特徴と異な...八幡山城@滋賀県近江八幡市宮内町他令和三年(2021)5月29日

 小堤城山城

小堤城山城@滋賀県野洲市大篠原 令和三年(2021)5月29日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら旧中山道と東海道への間道が城の麓を通り、湖東・湖南そして甲賀地方ともつながっていた要衝の地であり、城主は、戦国期の野洲郡一帯に勢力を保有した国人領主である永原氏と考えられる。当時の守護は六角氏で、守護代で野洲郡の郡代でもある馬淵氏の家臣であった永原氏は、やがて六角氏の直臣となり野洲郡での勢力を馬淵氏から継承したようである。しかし、織田信長の近江侵攻からは一族の大半が織田方につき、その後信長家臣の佐久間信盛の与力となったとされる。城域は、城の最高所から派生する尾根上、そして北西側の中腹部まで展開している。メインの登城路は北西側山麓からのルートである。縄張りの特徴として、六角氏の本拠である観音寺城と同様に、近江の天台宗寺院境内構造に酷似している点。次に、石垣が多用される点である。使用されてい...小堤城山城@滋賀県野洲市大篠原令和三年(2021)5月29日

 升方城

升方城@富山県魚津市升方 令和三年(2021)5月15日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら升方城は松倉城の支城のひとつで、標高230mの城山山頂に築かれた山城である。山頂部は、平らな本丸があり、その下には本丸を取り巻く帯曲輪状の二の丸があり、二の丸は土塁・石垣で固められている。さらにその下には升方集落方面に三の丸、石の門方面には多数の空堀や土塁が設けられている。升方城の城主は松倉城主椎名氏の家老小幡九郎と伝えられており、その後佐々成政の家臣佐々新左衛門がこの城を守ったと伝えられている。魚津市教育委員会、、、(現地案内板より)本城松倉城の記事は→こちら場所は魚津市升方自宅からは北陸自動車道・滑川IC下車、県道137号線を魚津方面に向かって走行、早月川を渡ってすぐに「升方城址」の案内標識があるので右折。升方地内に入ると城址案内看板に従って左折し山の方向に登...升方城@富山県魚津市升方令和三年(2021)5月15日

 水尾城

水尾城@富山県魚津市鹿熊 令和三年(2021)5月15日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら魚津市南部に位置する丘陵上(標高302m)に築かれた山城で、松倉城の支城の一つです。城跡があるこの丘陵には、北から升方城跡や南升方城跡、石の門砦があり、水尾城後の南には水尾南城が配置されています。また、水尾城後の東方約1kmの地点には全国的にも有数の規模を誇る松倉城跡があります。水尾城跡は丘陵の細長い尾根上にあり、南北350m、東西180mの範囲に5か所の空堀で区切られた4つの曲輪を設けています。北側の曲輪が最も広く西方に帯曲輪を巡らせています。北から三番目の曲輪は、南北の両端に土塁と石積みを配しており、最も堅固な守りを備えています。水尾城の名が歴史上に登場するのは、南北朝時代の様相を記した「得田文書」の中で、貞和二年(1346)7月、能登勢が水尾城や水尾南城を攻...水尾城@富山県魚津市鹿熊令和三年(2021)5月15日

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今日のレビュー

涅槃 上

戦国の梟雄と謳われた宇喜多直家の生涯を描いた歴史小説です。

官能小説かと思わせるくらいの性的な描写があるにも関わらず、全体的に低俗な印象は無く、人間味溢れる物語でした。

備前、備中のお城がよく登場し、下巻では三国一の美女おふくさんもしっかり登場します。

現在のJR岡山駅界隈の発展の礎を築いた人物であると改めて認識しました。

デュラけんさん)

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