備中櫓は津山城本丸にある櫓です。
現在ある備中櫓は2002年(平成14年)、「築城400年記念行事」の一環として復元されたもので、2005年(平成17年)3月に完成しました。
備中櫓(びっちゅうやぐら)
概要
備中櫓は本丸御殿の南西端に位置し、その名は鳥取城主池田備中守長幸(いけだびっちゅうのかみながよし)に由来すると伝えられる。森藩時代の基本的な資料である『森家先代実録』には「備中矢倉 池田備中守長幸入来の節出来」とある。森忠政は長女於松(おまつ)を池田備中守長幸に嫁がせており、長幸は忠政の娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に完成したのが備中櫓であったと考えられている。備中櫓跡の発掘調査で池田家の揚羽蝶紋の瓦が出土したことも、この建物が池田家と深い関係にあったことを物語っている。
備中櫓の外観は漆喰(しっくい)仕上げで通常の櫓と同様だが、本丸御殿指図には備中櫓がその東に接続する長局・到来櫓とともに描かれており、これらの建物が御殿の一部として認識されていたことを示している。さらに指図によると内部には御座之間や茶室を備え、建具には「唐紙(からかみ)」を用いるなど、内部は完全に御殿建築であり、なおかつ繊細で女性的な仕上げであったことがわかる。そのためこの櫓は、本丸御殿の最奥部という位置からしても、城主にごく近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられている。
このような特異な構造を持つ櫓は類例が少なく、津山城の建物の中でも特徴的なものであるため、復元整備の対象となったものである。
内部を見学することができます。
備中櫓は一般的な倉庫や見張り台といった櫓の用途ではなく、内部を御殿の一部として利用されていたそうです。
そのため畳敷きとなっています。
狭間も復元されています。
二階に上がることもできます。
二階にはこのように上段の間が設けられています。
そのほか一階には厠や茶室なども復元されています。
釘隠しやふすまの引手(ひきて)には森家の「鶴の丸」の家紋がありました。
「備中櫓」の名前の由来
「備中櫓」という名前は、因幡鳥取藩の第2代藩主、のち備中松山藩の初代藩主となった池田「備中守」長幸にちなんで名付けられました。
(地名としての「備中」ではなく、「備中守」という役職名からとられたものです)
池田輝政の弟にして鳥取藩初代藩主である池田長吉の長男として生まれた長幸は、正室に初代津山藩主・森忠政の娘・松子を迎え、さらに松子が亡くなったあとの継室にも忠政の娘・宮子を迎えており、忠政の娘婿でした。
その長幸が津山城を訪れることになり、彼を迎えるために築かれた(もしくはその時期に完成した)のが「備中櫓」であると『森家先代実録』には記載されています。