若狭守護・武田氏の居城で、のちに丹羽長秀が城主をつとめた後瀬山城の歴史を時系列でまとめています。
後瀬山城とは
後瀬山城は、現在の福井県小浜市に所在した山城です。
標高約168mの後瀬山山頂に主郭を設け、城域は南北約500m・東西約350mという規模を誇りました。
削平した山頂部に備えられた主郭は南北約90m・東西約30mで、北側と西側を中心に曲輪を配置。110箇所というおびただしい数の曲輪と、52条にもおよぶ堀切や竪堀の存在が確認されています。
現在の空印寺および小浜小学校のあたりには城館があり、南北約120m・東西約110mの敷地に二重の堀を備えるという、強固なものでした。
築城は1522年(大永2年)、若狭国守護の武田元光によるものとされ、1568年(永禄11年)に朝倉義景の侵攻を許して当代・武田元明が拉致されるまで、後瀬山城は武田氏の拠点でありました。
1573年(天正元年)、若狭を拝領した丹羽長秀が後瀬山城主に着任。以降、1587年(天正15年)に浅野長政、1593年(文禄2年)に木下勝俊がそれぞれ城主となっています。
1600年(慶長5年)、最後に城主となったのが京極高次でしたが、翌年には小浜城の築城が開始されたことにより後瀬山城は廃城となりました。
1987年(昭和62年)から翌年にかけて発掘調査が実施され、曲輪・堀切・竪堀などの遺構が確認されました。
また、二の丸の御殿跡からは庭園遺構や茶器なども発見されています。
後瀬山城は1997年(平成9年)に国の史跡に指定、そして2015年(平成27年)には日本遺産・海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~の構成文化財として認定されました。
巧みな曲輪間の連絡通路、谷の横道
後瀬山城が特に西側の防御に重点を置いた構造であることは先述のとおりですが、これは敵対関係にあり、度々確執を招いてきた丹後の一色氏への防備を想定したものと考えられています。
また、北東側連郭の西側には、曲輪と曲輪を結ぶような連絡通路が設けられている点が特筆されます。
これは谷の横道と呼ばれ、相互の情報伝達に加えて寄せ手への射撃も可能とする設備でした。
この構造は山城としては非常に珍しいもので、近代戦における塹壕のような役割をイメージさせます。
おびただしい数の曲輪に迅速に命令を伝達し、なおかつ各守備隊からの報告・連絡網を統括する要となったものでしょう。
二の丸御殿の発掘成果から庭園を含む茶の湯の設備があったこともわかり、若狭武田氏が先進の文化・文物に精通した国主であったこともうかがえます。
茶の湯に関わる作法の習得や、名器と呼ばれる茶器などの所持は当時の武将にとって大きなステータスであり、都との物流網が発達していたことの証拠のひとつでもあります。
後瀬山城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1522年(大永2年) | 若狭国守護・武田元光により築城 |
1527年(大永7年) | 武田元光が京都桂川の戦いで敗退 |
1532年(天文元年) | 国内防衛の不備を踏まえ、元光が出家 |
1538年(天文7年) | 元光の子・武田信豊が当主に |
同年 | 信豊に反発した有力被官・粟屋元隆が反乱 |
1542年(天文11年) | 信豊が河内太平寺合戦で三好長慶に敗北 |
1552年(天文21年) | 元被官の粟屋右馬允が若狭を攻撃。信豊は敗北 |
1558年(永禄元年) | 武田義統が当主に |
同年 | 被官の粟屋氏・逸見氏らの反乱を、越前朝倉氏と共同で撃退 |
1567年(永禄10年) | 義統死去。武田元明が当主に |
1568年(永禄11年) | 越前の朝倉義景が後瀬山城に侵攻、元明が越前に拉致され武田氏の若狭支配が終焉 |
1573年(天正元年) | 丹羽長秀が若狭を拝領、後瀬山城城主に |
1582年(天正10年) | 明智光秀に与した元明が自害。若狭武田氏が滅亡 |
1587年(天正15年) | 浅野長政が城主に |
1593年(文禄2年) | 木下勝俊が城主に |
1600年(慶長5年) | 京極高次が城主に |
1601年(慶長6年) | 雲浜城(小浜城)築城開始により、後瀬山城は以降廃城に |
1987年(昭和62年) | 後瀬山城の発掘調査を実施、翌年まで継続 |
1997年(平成9年) | 国の史跡に指定 |
2015年(平成27年) | 日本遺産の構成文化財として認定 |