登山道入り口の脇にある後瀬山城跡の案内板の内容を紹介します。
史跡 後瀬山城跡(のちせやまじょうあと)
いにしえは万葉集にも詠われた後瀬山。古くから小浜に住む人々、また小浜を訪れる人々に憩いをもたらす山として存在しています。この後瀬山に戦国の世に叶った山城が築城されたのは、大永2年(1522)のことです。当時の若狭守護武田元光は、すでに全国的にも飛躍をみせ、海外貿易をも視野にいれた小浜湊を望み、山麓に貫通する丹後街道を掌握する要衝の地にこの城の縄張りを行います。
- 指定年月日
- 平成9年5月23日
- 時代
- 16世紀(1522~1600)
後瀬山城は標高168mの位置に石垣を配する主郭を置き、ここから山麓の現空印寺の位置にあった居館に通じる北側稜線と、本登山道に平行する東側稜線に、大小あわせて139か所の曲輪と呼ばれる平場の防御施設を設けています。これら2本の稜線に造られる曲輪をつなぐ道路が北東谷間に幾本もみられ「谷の横道」と呼ばれています。また、北側稜線の先端には、畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めています。このことは、丹後国守護一色氏と度々戦火を交えた若狭武田氏が、西の小浜への入り口(青井口)の防御を強く意識していることを想定させます。
城主は、築城した若狭武田氏五代 元光(もとみつ)から、六代 信豊(のぶとよ)、七代 義統(よしむね)、八代 元明(もとあき)へと継承され、若狭武田氏滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、若狭国を統治する拠点として存続します。そして、関ヶ原合戦後に入国する京極高次により後瀬山城は廃城となり、新しく築城が開始される近世小浜城にその役目を引き継がれることとなります。
発掘調査が実施された主郭北西に位置する曲輪では、礎石建物跡とこれに付属する築山、そして多くの茶器類が検出されています。京都や当地において旺盛な文芸活動をみせた若狭武田氏の一端を示す調査例といえるでしょう。
現在地からの登山道は、廃城後に主郭に創建された愛宕神社への参詣道を利用し、歴史と自然を体感できるように遊歩道整備をしています。小浜市