川越城
川越城

[埼玉県][武蔵] 埼玉県川越市郭町2-13-1


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.42(77位)
  • 見学時間:1時間(74位)
  • 攻城人数:2722(43位)

富士見櫓跡

富士見櫓は天守の代用として使用されていた三重櫓です。
名前の由来は、文字通り櫓から富士山を望めたことによります。正確な規模は不明ですが、江戸末期の1866年(慶応2年)に川越城を測量した際の記録によれば、長さ八間三尺(約15メートル)、横八間 (約14メートル)あったと記されています。

埼玉県立川越高等学校南側にあるの小高い丘が当時の三の丸跡で、ここに建てられていました。
現在、跡地には浅間神社と御嶽神社があります。

富士見櫓跡(ふじみやぐらあと)
所在地 川越市郭町二丁目

 御嶽(おんたけ)神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。
 櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱(ひし)櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣(てんしゅかく)の代わりとなっていたと思われる。
 今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
 元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応(けいおう)二年(一八六六)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約十五メートル)、横八間(約十四メートル)あったと記されている。昭和五十七年三月  埼玉県
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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