小丸城跡からは前田利家が一揆集を鎮圧した際の様子を記した文字瓦が出土しています。この文字瓦は1932年(昭和7年)におこなわれた乾櫓の発掘調査で見つかりました。
現在、出土した文字瓦は小丸城からクルマで5分のところにある「万葉の里 味真野苑資料館 万葉館」に展示されています。
小丸城跡の土塁北西隅の乾櫓(いぬいやぐら)が工事で削平された際に出土した燻(いぶ)し瓦で、軒丸瓦五個、軒平瓦一個、丸瓦七個、平瓦四個の計十七個を数える。軒丸瓦は三巴文で、巻き込みが背中合わせとなり、長く伸びた尾が界線に接している。この瓦当文(がとうもん)は、坂本城跡(大津市)や勝龍寺跡(長岡京市)出土の軒丸瓦と同じ瓦笵で製作されている。軒平瓦も三葉文を中心飾とする均整唐草文で、やはり勝龍寺城跡出土瓦と酷似している。坂本城・勝龍寺城は、各々明智光秀、細川藤孝という織田信長の有力家臣が築造した城で、小丸城の瓦も両城関係の深い信長配下の瓦工人集団により製作されたことがわかる。
丸瓦のうち二つに次のような線刻銘がある。(1)此書物後世に御らん(覧)じられ
御物かたり(語)可有候 然者五月廿四日
いき(一揆)おこり其のまま前田
又左衛門(前田利家)殿いき千人ばかり
いけとり(生捕)させられ候也
御せいはい(成敗)はりつけ(磔)
かま(釜)にい(煎)られあぶられ候哉
如此候 一ふて(筆)書とと(留)め候
(2)かわら□□ 此ふん人夫
ひろせ 池上これらの刻銘は、文献に見えない「五月廿四日」一揆の存在と、前田利家がこれを厳しく弾圧したことを明らかにし。また広瀬(ひろせ)・池ノ上(いけのかみ)地区の工人が瓦製作に関わっていた可能性を想定させる重要な史料である。