新発田城は1597年(慶長2年)に溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封して以来、明治時代に至るまで12代にわたって新発田を統治する拠点となりました。
新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡です。
明治時代に廃城令により、城内の建物の大半が破却され、明治政府に接収された城跡には陸軍の歩兵第16連隊が置かれました。
現在も城郭跡地の大部分が陸上自衛隊の新発田駐屯地となっているため、特別公開時以外は三階櫓を見学できないなど観光地化の支障となっていますが、城と駐屯地が同居する光景を見て「戦国自衛隊みたい」と感想を漏らす人も多いようで、一部では「戦国自衛隊の城」という愛称で呼ばれているそうです。
市指定文化財記念物史跡新発田城跡
新発田城は、戦国時代には佐々木氏の一族新発田因幡守重家の居城であり、近世は慶長三年(一五九八)に入封した新発田藩主溝口秀勝が築城を開始し、以降溝口氏十二代の居城となりました。
廃藩置県後、歩兵第十六連隊の兵営となり、現在は新発田城址公園と陸上自衛隊駐屯地となっています。石垣延長は約三五〇m。新発田市教育委員会
表門のそばにも案内板があります。
新発田城
この城は、慶長三年(一五九八)に越後蒲原(かんばら)郡六万石(のちに五万石、十万石となる)の領主として加賀大聖寺(だいしょうじ)から移封された溝口秀勝が、上杉景勝と戦い落城した新発田重家の城跡をとり入れて築いたもので、版籍奉還まで約二七〇年間、外様大名溝口氏の居城となってきた。
平地につくられた城で、構えは本丸を二ノ丸がとり囲み、南に三ノ丸をつき出し、その南東端に大手門を開いた南北に長いひょうたん状をなしており、南西部一帯に城下町がつくられている。本丸は藩主、二ノ丸の南半分と三ノ丸は家老など上級藩士の居住地であり中級以下はこれらをとりまいて住んでいた。
一名菖蒲(あやめ)城、舟形城、狐の尾引城などとも呼ばれ、江戸末期には事実上の天守閣である三階櫓や大手門をはじめとして櫓が十一、主な門が五棟あったが、明治初年に新政府の命令でとり壊され、堀も次々と埋めたてられて、今は表門、旧二ノ丸隅櫓、本丸の石垣と堀の南半分、土橋(どばし)門跡土塁を残すのみである。
表門(本丸正門)と旧二ノ丸隅櫓は昭和三二年、国の重要文化財に指定された。そして、昭和三四・三五年に解体修理を行ない復元したものである。旧二ノ丸隅櫓は、もと二ノ丸北部にあったが、このとき今の場所、本丸鉄砲櫓跡に移された。
表門は、享保一七年(一七三二)に再建された二階建ての櫓門で、旧二ノ丸隅櫓は、寛文八年(一六六八)の大火後再建された二重櫓である。ともに腰まわりが瓦張りのなまこ壁となっており、北国の地域性と風情が感じられる。新発田市教育委員会