織田信長の父である織田信秀が築き、弟の織田信行(信勝)の居城となった末森城(末盛城)の歴史を時系列でまとめています。
末森城とは
末森城は現在の愛知県名古屋市千種区に所在した城で、平地の丘陵上に築かれた平山城と呼ばれるタイプのものです。
1548年(天文17年)に織田秀信によって築城され、弟の織田信光が預かる守山城(現在の愛知県名古屋市守山区)とともに東部方面、すなわち駿河・今川氏や三河・松平氏などへの防衛線の一角としての機能を担いました。
同年に信秀はそれまで居城としていた巨大な平城である古渡城から末森城に本拠を移します。
旧・古渡城下は信秀不在の折に織田大和守家の重臣・坂井大膳らの攻撃を受けるなど、同時期には周辺諸国との緊張のみならず織田家中でも大きな内紛が起こった年でした。
1552年(天文21年)、信秀が死去すると末森城は信長の実弟・織田信行(信勝)が継承します。信行は白山を信仰していたため城中に白山比咩神社の分霊を勧請、白山社として祀ります。
織田家の家督をめぐって対立していた信長と信行の間で緊張感が高まり、1556年(弘治2年)の「稲生の戦い」で両者は激突。信行軍は敗北し、末森城・那古野城に籠城しますが、信長はその城下を焼き払います。
戦後には実母である土田御前の仲介で信行はじめ主だった武将が赦免され、その中には織田家筆頭家老となる柴田勝家の姿もありました。
一時信長への恭順を誓った信行でしたが、2年後の1558年(永禄元年)に再び謀反の動きを察知され、清洲城にて謀殺されます。これをもって城主を失った末森城は廃城となり、信長が尾張を掌握することになります。
しばらく廃城であった末森城ですが、1584年(天正12年)頃に信長次男・織田信雄によって「小牧・長久手の戦い」への防備として再整備し、信雄・家康方の部隊が一時使用したと伝わります。
戦闘用として築城された、要塞としての末森城
末森城は東間丘陵の端、標高約43mの丘に南北約160m・東西約200mの規模で築城された平山城です。
麓からの比高は約20mで、本丸に二の丸、そして二重の堀をめぐらせた堅固な構造をしています。
それ以前に織田信秀が居城していた平城の古渡城が城館だとすれば、この末森城はまさしく山城に準じた戦闘用の要塞として築かれたことがわかります。
当時の織田家中と周辺勢力との緊張の高まりを反映しているともいえ、有事に備えた防御線の構築が必要とされた痕跡となっています。自然地形を巧みに利用し、中腹には10m~16mもの幅をもつ空堀を設け、三日月堀という半月型のとても珍しい丸馬出を備えていたことが古絵図で確認できます。
残念ながら現在ではその様子をうかがうことはできませんが、7mほどの空堀の跡を見ることができ、名古屋市内でもっとも戦国期の遺風を残す城址としても知られています。
現在残る馬出や惣構えの遺構は、1584年(天正12年)頃に織田信雄が再整備をおこなった際の設備と考えられています。
末森城址の碑は現在では城山八幡宮の境内に建っていますが、この神社の前身のひとつが信雄によって勧請された白山社だったとされています。
末森城のように名古屋という大都市において、ほとんど原型を保ったまま残された戦国期の城址は稀有な存在であり、奇跡と例えられることもあります。先の城山八幡宮の神域として、また貴重な文化遺産のひとつとして大切にされています。
末森城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1548年(天文17年) | 織田信秀により、今川氏や松平氏などへの防備として築城 |
同年 | 信秀が古渡城から末森城に拠点を移す |
1552年(天文21年) | 信秀死去により、織田信勝が末森城主となる |
1553年(天文22年) | 信勝が城中に加賀・白山比咩神社の分霊を勧請、白山社として祀る |
1556年(弘治2年) | 信勝は信長と対立し、稲生の戦いで敗北。その際末森城にて籠城戦を行う |
1558年(永禄元年) | 再謀反の動きを察知された信勝が清洲城で謀殺され、以降廃城となる |
1584年(天正12年)頃 | 小牧・長久手の戦いに備え、織田信雄が末森城を再整備する |