神吉氏の居城で三木合戦の舞台にもなった神吉城の歴史を時系列でまとめています。
神吉城とは
神吉城は現在の兵庫県加古川市東神吉町のあたりに所在した平城で、真名井城や奈幸子(なこし)城の別名でも知られています。
加古川西岸の河岸段丘上に立地し、神吉集落のほぼ中央にある常楽寺が城の中心地だったと考えられ、土塁や横堀(空堀)の跡が確認されています。
また、中の丸・東の丸・西の丸・二の丸など各曲輪があり、『信長公記』によると中の丸には天主が建てられていたとされています。
二の丸には引橋がかかり、城下町を堀で囲む総構の城だったとも考えられています。
正確な築城年代は定かではありませんが、南北朝時代(1336年~1392年)には赤松(神出)範次の手で築かれ、範次が神吉の地を領したことによりその子の元頼が神吉氏を称したものとされています。
神吉氏は先述のとおり赤松氏の一族であり、1538年(天文7年)の文書では神吉伊賀の名が記されています。
文献によっては三木合戦の折には三木城の支城だったとも、中道子山城の支城だったともされ、播磨防備を担う拠点のひとつだったことがうかがえます。
城跡は現在では中の丸跡に常楽寺、西の丸跡に真宗寺が建っており城らしさは定かではありませんが、山門前や寺域の周囲からは段丘の比高をしのぶことができます。
三木合戦における神吉城の奮戦
神吉城がその名を轟かせたのは、三木合戦における1578年(天正6年)の織田方からの攻城に対する迎撃戦です。
これは毛利氏討伐についての軍議で別所長治と羽柴秀吉が決裂し、当時の神吉城主・神吉頼定が同じ赤松氏一族の別所氏に合力したことに始まります。
同年6月、織田信忠を総大将とするおよそ3万の軍勢が神吉城攻略に動き出します。
信忠麾下、羽柴秀吉・佐久間信盛・明智光秀・荒木村重ら織田の精鋭による大規模攻撃でした。
これに神吉城は1千あまりともいわれる寡兵で応戦。その奮戦ぶりはすさまじく、同月26日には織田方の将兵実に3千ばかりが討死したと記録されています。
三木城の包囲網が構築されたように、秀吉らは神吉城攻略にあたっても周辺の支城を着実に撃破するという過程を経ていました。
また、神吉定頼の叔父にあたる神吉貞光を調略で味方に引き入れるなど、裏工作にも余念がありませんでした。
同城をめぐる戦いは一か月ほども続きましたが、神吉貞光の裏切りによって定頼が暗殺され、7月に神吉城は落城となりました。
この時の神吉城籠城戦には、近郷の土豪や地侍はもちろん、現・姫路市の野里から鋳物師集団の一部も参加していたことがわかっています。
鋳物師とは鋳造などを行う金属加工の技術者のことであり、武器や防具、または鎹や釘などの金属製建材の製作に携わったことが想像されます。
籠城戦においては外部からの補給が潤沢に受けられるとは限らず、場内で鏃や弾丸の製造、武器・防具の補修、はては防御機構の営繕などを行う必要がありました。
鋳物師はそういった作業に必要不可欠な人材であったと考えられ、神吉城の長期にわたる頑強な防戦を支えたのはそういった技術者集団の存在に負うところも大きかったと考えられます。
神吉城攻めに際して、秀吉は現・兵庫県高砂市の生石神社を陣所として明け渡すように通告しましたが、神吉定頼の弟であった当時の宮司はこれを拒絶。そのことにより、生石神社は焼き討ちされてしまいます。
この時焼け残った梵鐘は接収され、関ケ原の戦いでは大谷吉継の陣鐘として用いられたといいます。
三木城の落城で三木合戦が終息すると、神吉城は1580年(天正8年)に秀吉の命によって副田甚兵衛の手で破却されることとなりました。
神吉城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
南北朝時代(1336~1392年) | 赤松(神出)範次により築城 |
1578年(天正6年) | 三木合戦で神吉氏は別所氏に合力、秀吉と敵対 |
同年 | 神吉頼貞が暗殺、神吉城は落城 |
1580年(天正8年) | 秀吉の命により、神吉城は破却 |